【プロレス蔵出し写真館】6月末、長州力がX(旧ツイッター)で「今日はいい汗をかきましたね。会長ありがとう御座いました。」とツイート。長州が会長と呼ぶ、アントニオ猪木の写真が掲げられている新日本プロレス道場の写真をアップした。
1年半ほど前に「今でも新日道場で練習することがある。若い選手の名前はわからない」と聞いていた。
さて、猪木が亡くなった今でも感謝のツイートをする長州が、マスコミが驚愕するほどの強烈な〝猪木批判〟を展開したことがあった。23年前の2002年(平成14年)5月31日、新日道場で行われた退団会見だ(写真)。
長州は前日の30日に渋谷の新日事務所を訪れ、藤波辰爾社長を始め社員らに退社あいさつを済ませた。藤波社長とは「調子はどうですか?」と短い会話を交わしただけで新日プロを去った。
長州の退社が決定的になったのは、この年の1月に勃発した武藤敬司の退団騒動だった。オーナーの猪木による過剰な介入、格闘技路線の推進に気持ちが離れての退団劇だった。
東スポはこの長州の退団会見と猪木の返答を、強烈な見出しを付けて1面で報じた。
「猪木は欠落人間」「長州の痛烈糾弾に激白」
会見で長州は「オレは正直にしゃべるけど、確執の原因で大きなものはアントニオ猪木。引き金になったのは武藤が辞めたときに(幹部)社員2人が出て行ったこと。彼らは新日本にプライドを持っていた。でも会長(猪木)は彼らがなぜ辞めたか、見ようとはしなかった」と断罪した。
そして「いろいろな問題があったが、ひとつはロサンゼルス道場。会社の状況が厳しい時期に毎月1万ドル(約124万円)以上かけることに何のメリットがあるのか。道場に誰が携わるかというと会長の身内。あの人に弟子とかそういうものはいないんじゃないか。みこしを担ぐ人間はいたが、周りにはほとんどいないよ。あの人が唱えたことは、出て行くものは大きいけれど、返ってきたものは何一つない」と批判すると、「あの人は常におびえている人間。最終的にコンプレックスがあるんだ。ジャイアント馬場が坂口(征二会長)さんを信用しても、あの人を信用しなかったのもわかる。結局30年間、会長の側にいて何一つ実現しなかった」。
取材陣が〝そこまで言うか〟と互いの顔を見合わすほど、強烈なものだった。
最後に長州は「なにか欠落しているんだ。あの人には感謝すらない」と、猪木の人格そのものに欠陥があると断言した。
猪木は翌6月1日、パラオへ渡航する直前に記者団に囲まれると「興味ないよ」とピシャリと言い放った。長州の今後に「いい人生を送ってくれ、というしかない。金に困ったらオレのところへおいで。好きにやんなさい。今は長州力よりも新日本の方が大切な時期だからね。フフフフ…」と惜別のメッセージを送った。
長州の糾弾はそれだけでは収まらず、5日に東スポの独占インタビューを受け、またも爆弾発言を連発した。
「実は2年前、大阪のホテルに猪木さんに呼び出され『坂口と藤波のクビを切れ。社長はお前がやれ』と言われた。オレは断り、『現場のことは任せてくれ』と現場責任者の道を選んだんだ。藤波は1983年(昭和58年)のクーデター事件(猪木、坂口、新間寿営業本部長が解任された)のとき、オレの手を握り『頼んだぞ!』と言っていたのに、いつの間にか撤退。『オレが新日プロを守る』と格好をつけてしまった。彼を信じてた者は、みんな裏切られたんだ」(長州)。
翌03年3月、長州は盟友の永島勝司氏とともにWJプロレスを旗揚げ。翌04年6月で崩壊すると、その年の10月に新日プロに復帰して再び現場監督に就いた。
ところで、以前、前田日明が長州から「アキラ、面白い話教えてやろうか。84年にオレが動いたのは(新日プロ退団~ジャパンプロレス起ち上げ)猪木さんの指示だよ」と聞いたことを明かしていた。
87年(昭和62年)に長州を新日プロにUターンさせたのも猪木だったことが、関係者から明かされている。
もしかすると、02年の退団会見で猪木をボロクソに言って退団するのも、猪木の指示だったのだろうか…。
〝はたから見るより〟猪木と長州の関係はずっと強固なものだったのかもしれない(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













