【平成球界裏面史 近鉄編104】近鉄バファローズ最後のシーズンとなった平成16年(2004年)、このシーズンから加入したヘクター・カラスコ投手を引き続き紹介する。なかなかにシャイでありながら陽気なナイスキャラだった右腕。メジャーで498試合登板という実績があったため、かなりの期待を背負っての来日となった。

 ところが、開幕直後から不安定な投球が続いたため一、二軍を行き来してしまい、好不調な波が大きかったこともあり、何かと話題になる面白い存在だった。

 ちなみに毎年夏ごろに新バージョンが発売されていた野球ゲーム「実況パワフルプロ野球11開幕版」(コナミ社)では、前年の成績と発売年の4月までの成績に基づいてポテンシャルが決定されるため、実際からはかなり過小評価された能力値が設定されていた。

 直球の最速こそ154キロと事実に基づいたものだったが、高速スライダー、シンカーなどの変化球はほぼ曲がらない設定。特徴として球が軽いなどと、それはかわいそうに思えるほどの能力値となっていた。

最終戦セレモニーでファンに手を振る大塚晶文(2002年10月)
最終戦セレモニーでファンに手を振る大塚晶文(2002年10月)

 まあ、それも仕方がないだろう。絶対的な守護神だった大塚晶則の後釜として期待されながらド派手な炎上を繰り返し、4月終了時点で防御率20・00、被打率は3割8分1厘という惨状。打ち込まれ、炎上してしまった守護神に対し、野球ファンはネット上で「〇〇スコ」と名付けてネタにすることが定番になるほど、カラスコには炎上イメージが定着していた。

 それでも二軍落ちから再昇格後は、中継ぎとして7月の月間防御率0・44と本領を発揮。ただ、再び守護神に返り咲くとまた炎上という、何とも言えない不思議なシーズンを過ごした。シーズントータルでは8勝を挙げているが、リリーフ投手として8敗は多すぎるだろう。防御率も5・57、5セーブという成績は期待外れだったと言わざるを得ない。

 ただ、本人の名誉のために次年度、平成17年(05年)シーズンの成績をしっかり明記しておく。近鉄を退団後は米球界に復帰してナショナルズとマイナー契約。シーズン中にメジャー40人枠を勝ち取り、ビハインドの場面でロングリリーフや中継ぎとして好投を連発した。徐々に信頼を勝ち取るとセットアッパーに抜てきされて大活躍。故障者が続出したシーズン終盤には先発でも起用されるなど、近鉄時代とは別人のような姿を示した。

松井秀喜(右)との再会を喜ぶカラスコ(2006年8月)
松井秀喜(右)との再会を喜ぶカラスコ(2006年8月)

 平成17年(05年)シーズンは64試合に登板し5勝4敗2セーブ、8ホールドで防御率は2・04。オフにはFAとなり平成18年(06年)はエンゼルスに移籍して56試合、7勝3敗1セーブ、1ホールド、防御率3・41という堂々の数字を残した。平成19年(07年)もエンゼルスで29試合に投げたが、成績が振るわず。36歳でプレーしたこの年がメジャーで活躍した最後のシーズンとなった。

 それでも引退をせず、平成20年(08年)にはパイレーツ、カブスのマイナーでプレー。平成21年(09年)からは独立リーグやメキシカンリーグで現役を続け、41歳となる平成24年(13年)まで投げ続けた。平成元年(89年)からプロのキャリアをスタートさせ、24年間の現役生活を日米とメキシコの20球団でまっとうした。アスリートとしてリスペクトされていい存在だろう。

 ちなみに、近鉄消滅の後に誕生した楽天イーグルスの非公式マスコット「Mr.カラスコ」の〝中の人〟になったのではないかとウワサされたが、それはデマ。当時の楽天球団公式サイトでもヘクター・カラスコとの関係を否定している。

交流戦で古田敦也監督と握手するMr.カラスコ(2006年5月)
交流戦で古田敦也監督と握手するMr.カラスコ(2006年5月)