【平成球界裏面史 近鉄編102】近鉄球団が消滅した平成16年(2004年)、チームのクローザー候補として鳴り物入りで入団した剛腕がいた。その名はヘクター・カラスコ投手。ドミニカ共和国出身で平成6年(1994年)にメジャーデビュー。近鉄入団前にはすでにMLBで498試合登板という実績を引っ提げ、キャンプ途中に正式契約を結んだ。

 近鉄が期待したのは「ポスト・大塚」だった。平成14年(02年)のオフ、当時守護神だった大塚晶則投手がポスティングシステムを利用したMLB挑戦を模索し退団。後に平成18年(06年)のワールドベースボールクラシック(WBC)でクローザーを務めた右腕の穴を埋めることが緊急の課題だった。

パドレスに移籍した大塚晶文(2004年3月)
パドレスに移籍した大塚晶文(2004年3月)

 カラスコは来日した時点で34歳。当時の担当記者の周辺では、そのルックスから「すでに40歳過ぎてるんちゃうの」などとやゆされることもあった。だが、オープン戦では無難に結果を残し、近鉄の守護神として開幕を迎えた。

 カラスコのNPBデビュー戦となったのは平成16年(04年)の開幕戦、3月27日の日本ハム戦だった。この試合は日本球界に復帰した新庄剛志外野手(当時の登録名はSHINJO)が話題になったこともあり、大阪ドームはほぼ満員。シートノックで中堅手・新庄から本塁に鋭い送球が投げ込まれると、球場が沸いたことが印象的だった。

日本球界に復帰した新庄剛志にファンは大喜び(2004年3月)
日本球界に復帰した新庄剛志にファンは大喜び(2004年3月)

 開幕戦とあって始球式には元近鉄監督で野球殿堂入りを決めた直後の仰木彬氏が登場するなど、華やかな演出で試合が始まった。先発・岩隈久志は初回に失点するも粘って7回2失点。8回はベテラン左腕の吉田豊彦とつなぎ、9回は4点リードとセーブシチュエーションではなかったが、カラスコに出番が回ってきた。

 来日初登板は三者凡退で堂々のデビュー。球速も最速で154キロを記録するなど、この時点ではメジャークラスの実力をそのまま発揮していくと思われていた。ところが、直球で空振りを取れない場面も目立ち、当時の担当記者たちの間では「いやいや、まだまだ怪しいんやないの?」という雰囲気が残っていたことも確かだ。

 そして、悪い予感は的中してしまう。開幕4戦目となる3月30日のロッテ戦にカラスコが1点リードで登板すると、ベニー・アグバヤニ、里崎智也に被弾して逆転負け。助っ人右腕に来日初黒星がついた。さらに4月9日の西武戦ではサヨナラ犠飛を許し敗戦。2日後の11日の同カードでは和田一浩にサヨナラ満塁弾を浴びるなど、狙ってもそこまで燃え上がらないほどの大炎上を繰り返した。

カラスコからサヨナラ満塁弾を放ちユニホームを脱がされる和田一浩(2004年4月)
カラスコからサヨナラ満塁弾を放ちユニホームを脱がされる和田一浩(2004年4月)

 4月29日に登録を抹消されるまで、開幕から約1か月で1勝5敗2セーブ、防御率20・00。近鉄バファローズ、スタートダッシュ失敗の立役者となってしまった。あの頃はまだオリックスとの球団合併の話題が出てくる前だった。そんな未来を誰も予想していなかった。

 現場には当然、悲壮感もなく、近鉄関係者の間で新しい言葉が流行し始めていた。仕事で収拾がつかず、どうにもならない状況になった時など、こぞって「カラスコ状態」などと冗談を飛ばし合った。

 しかし、カラスコは7月だけメジャーの実力を発揮することになる。