【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(26)】1986年になると新日本プロレスのリングにUWF勢が参戦することになった。UWFは「クーデター事件」で新日本を退社した新間寿さんが84年に旗揚げした団体で旗揚げ時の雰囲気や道場のにおいがするリング上の動きを見て、新日本旗揚げ以来最大の危機だと感じていた。選手の目が違うし、これは取って代わられてしまうんじゃないかとね。

5対5勝ち抜きマッチ(86年5月)
5対5勝ち抜きマッチ(86年5月)

 しかし、UWFは早々に興行的に行き詰まり、85年9月を最後に活動を停止。前田日明や高田延彦らが古巣の新日本に復帰することになった。彼らに共感するところがあったから、団体を畳むことに寂しさがあったのを覚えているし、いざ同じリングで戦うとなれば驚異的な相手になるという感覚だった。

 その不安は早々に現実のものとなる。86年3月1日、後楽園ホールでは木村健吾、越中詩郎と組んで前田、高田、藤原喜明組と対戦した。高田からジャーマンで勝利を収めたんだけど、この試合中に前田の左ハイキックがあごか何かに入ってしまって一瞬気を失ってしまった。痛みとか何もないままフワ~ッとなって「ノックアウトってこんな感じなのか」と思ったのを覚えている。脳が揺れたんだろうね。

 UWFは従来のプロレスを打ち崩そうとしていた。ロープには飛ばない、ロックアップはしないとか…。結果的に新日本のベテラン勢は毛嫌いするようになる。3月26日の東京体育館では新日本とUWFの5対5イリミネーションマッチが組まれたけど、猪木さんと前田のシングルをマッチメークできないことを不満に思うファンもいたと思う。もちろん、当の前田の中でもジレンマはあっただろうね。

 そのぎこちなさは外国人選手にも伝わって、4月29日の三重県津市体育館でのアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチは不穏な展開の末に無効試合。でも、俺はどこかに前田のプロレスへの思いは一緒だという思いがあった。5月1日の両国大会ではUWFとの勝ち抜き戦で対戦。副将の藤原戦で流血してしまっていたこともあり、TKOで敗れてしまった。

 そして迎えた6月12日大阪城ホール大会のIWGPヘビー級王座決定リーグ公式戦で、お互いにベストコンディションで戦うことになった。この年のリーグ戦は総当たりではなく、A、Bの2ブロック制が採用された。これは見方によっては会社側が猪木さんと前田を当てないようにするために仕向けたと思われるかもしれない。

 ただ、俺としては新日本が前田という男を無視するわけにはいかないという思いが強かったし、彼と当たることを願っていた。そして、この試合は、俺にとっても忘れられないベストバウトになった――。