【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(21)】1984年2月3日、北海道の札幌中島体育センター大会で長州力とのシングルマッチが組まれた。抗争が続くうちに当初のドロドロとした感情ではなく、俺はもう一つ上のステップというか「いい攻防を繰り広げたい」「いい試合をしたい」と思うようになっていた。
ところが、この日の試合は長州が入場するところを藤原喜明が襲撃してまさかの不成立となってしまった。これが藤原が一躍「テロリスト」として脚光を浴びるようになった「雪の札幌事件」だ。俺は藤原というよりは会社に対する怒りが爆発した。そこまでして俺と長州の試合を「ぶち壊したいのか」とね。
もちろん、会社のドル箱カードを一選手がぶち壊して、何のおとがめもないわけがない。藤原という選手は基礎がしっかりしていたけど、ああいう思い切った行動は好まないタイプ。あんな大胆な行動をけしかけたのはアントニオ猪木さんしかいないんだろうけど、もしかしたら「名勝負数え唄」と呼ばれていた俺と長州の抗争にジェラシーや危機感があったのかもしれない。
怒り心頭の俺はミスター高橋レフェリーをボディースラムで投げるなど大暴れした末に「こんな会社、辞めてやる!」と吐き捨ててコスチューム姿のまま会場を後にしてタクシーに乗り込んだ。本当にその気持ちだった。「そこまで俺のやることが気に入らないならもういいよ」と。本当、今にして振り返ると俺の純粋な気持ちがもてあそばれていたよね。
到着したホテルは、さっぽろ雪まつり期間中ということもあってロビーが混み合っていた。タイツ一枚で長州の返り血を浴びた姿は、何の事情も知らない観光客には異様に映っただろう。俺はシャワーを浴びるとチェックアウトし、そのまま千歳空港に向かったんだけど、すでに最終便は終わってしまっていた。仕方なくまたホテルに戻って、またチェックインし直したんだけど、さすがにバツが悪かったね…。
この事件以降、長州との抗争はトーンダウンしていく。長州がターゲットを猪木さんに変更していった影響もあったと思う。「雪の札幌」から約半年後の7月20日の札幌中島体育センター大会でピンフォール勝利を収めたのを最後に、長州との戦いは途切れた。そして、その2か月後、長州は維新軍のメンバーとともに新日本プロレスを離れた。
2~3年はやっていたような感覚なんだけど、実際は1年9か月しかなかった。シングルマッチを12試合もやったんだけど、もっとたくさんやったように感じる。長州という本物のレスラーとの戦いを通じて、俺はもう一回り成長させてもらったと思う。「名勝負数え唄」がなければ、今の藤波辰爾は間違いなく存在していないだろう。













