【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(17)】1970年代で印象深い出来事の一つに79年8月26日に日本武道館で行われた「プロレス夢のオールスター戦」がある。東京スポーツ新聞社創立20周年イベントとして新日本、全日本、国際の3団体が参加した。

日本武道館で「夢のオールスター戦」が開催
日本武道館で「夢のオールスター戦」が開催

 メインではアントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんの「BI砲」が8年ぶりに結成され、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦。俺はミル・マスカラス、ジャンボ鶴田さんと組んでマサ斎藤さん、タイガー戸口さん、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)と戦った。パートナーも対戦相手も「この人しかいないな」と。他団体の選手同士が戦うことはあり得ない時代だし、東京スポーツじゃないとできなかった夢のカードだね。

 ファンからしたら両団体の次期エース候補の俺と鶴田さんを戦わせたかったらしくファンからの得票も多かったと聞いた。もちろん、俺も鳴り物入りで入ってきて馬場さんに次ぐ全日本のナンバー2になっていた鶴田さんにはライバル心を持っていた。タッグを組むにもウキウキ気分はどこにもない。絶対にあの2人よりも目立ってやるという気持ちだった。

 でも、鶴田さんの方は対照的にどっしりと構えていて、俺への対抗心みたいなものは一切感じられなかった。馬場さんの教育もあるだろうし、彼自身の頭のスマートさもあったんだろう。そこで俺を意識すると、持ち上げることになってしまうから『お前とは違うんだよ』っていう態度を取ったのかもしれない。

 試合では鶴田さん、マスカラスとのトリプルドロップキックのシーンがハイライトになっているけど、あの時はセンターから絶対に動かないぞって感じだった。やっぱり夢のオールスター戦とは言っても選手同士は少なからず対抗心を持っていたと思うし、自分は必要以上に意識していたのかもしれない。

 鶴田さんはB型肝炎のため47歳で引退し、2000年の5月にフィリピンで肝臓移植手術中に急逝した。実は亡くなる直前の年明け、自宅に電話がかかってきたことがあったんだ。最初は耳を疑った。当時、彼はポートランドにいて「今度日本に帰ったら会えませんか」と言われ「もちろんですよ。待ってますから」と約束していた。結果的に会うことがかなわなかったけど、いろいろな話をしたかった。

 できれば対戦もしてみたかった。長州力や天龍源一郎と戦った試合も見たけど、俺ならどんな試合をするだろうと考えた。昔そんな話をしていた時に長州からは「辰っつぁん、あれはしんどいよ」って言われたけど、ジャンボ鶴田を慌てさせるような試合をできたんじゃないか。違った一面を引き出せたんじゃないかという自負があるんだ。