【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(19)】長州力の反逆から2週間後の1982年10月22日、広島県立体育館での一騎打ちは当初予定されていたタイトル戦がノンタイトル戦に変更されて行われた。もう試合じゃなくケンカ。結局無効試合になってしまった。後楽園ホールの「かませ犬事件」から約2年間にわたって長州と戦うことになるんだけど、当時はリングの上でしか顔を合わせてないし、一切口もきいていなかった。
広島で決着がつかなかったことを受けて、11月4日の蔵前国技館大会ではWWFインターナショナル王座をかけて再戦が組まれた。もともと俺はボブ・オートン・ジュニアとの対戦が組まれていたんだけど、猪木さんの目にはそれを変更する価値があると映ったんだろうね。広島で中途半端に試合が成立していたらこんなことにはならなかったし、ある意味で猪木さんの狙い通りだったのかな。結局この試合は反則勝ちという形でタイトルの防衛に成功した。
長州はその後「革命軍」を結成し「維新軍」と名づけられた。マサ斎藤さん、小林邦昭、キラー・カーンらが加入し、新日本の一大勢力となり連日対戦した。そして迎えた83年4月3日、再び蔵前国技館大会で一騎打ちを迎えることになる。俺も万全の状態で上がったし、これは言い訳じゃないんだけど…エプロン越しのブレーンバスターを敢行した時に右足が「バキッ」と鳴ってしまって片足しか使えなくなってしまった。
結果的に長州のラリアートでピンフォール負けを喫したんだけど、最後に、俺の髪の毛をワシづかみにして押さえ込む必死の形相は今でも忘れられない。負けた後のリング上で長州が手を上げられて、マサさんと抱き合っていたんだけど、ものすごくいい顔をしていた。負けた悔しさの半面で彼が輝いて見えていたし、お客さんの歓声もものすごいものがあった。長州の本来の力が満天下に示された一戦だったと思うね。
ベルトを取った後に「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」という言葉を残していたけど、まさにその通りだった。この試合は同年の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」のベストバウトを受賞した。自分のことを言うのは気が引けるけど、誰も異論はなかったんじゃないかな。まさにプロレス界が変わった一戦だったと思う。
その試合からわずか18日後、同じ蔵前国技館のメインイベントで長州との再戦が組まれた。いかに俺と長州の抗争がファンの注目を集めていたかっていう話だけど、まだ右足の負傷も癒えていなかったこともあって、この試合でリングアウト負け。長州に2連敗という挫折を味わい、本当にどん底に突き落とされた気分だった。












