【キューティー鈴木・白い青春(12)】1986年8月に後楽園ホールで旗揚げ戦を開催してから約5年半。ジャパン女子プロレスは92年1月26日の埼玉県熊谷市民体育館大会を最後に解散しました。
数年前から何度も「解散」の噂は耳にしていたので、当初は「またか…」くらいにしか思ってなかったんです。解散する少し前から給料も払われていなかったんですけど、これまでも遅れることは、しばしばあったので慣れっこになってしまっていて…。でもこの時は、熊谷大会以降の試合スケジュールがまったく入ってなかったので「あれ? これは本当に解散するのかも」って思い始めていました。
芸能のお仕事のスケジュールは団体の解散後もすでに決まっていたので、事務所スタッフに「『プロレスを続けません』とは言っちゃダメだよ。『まだ先のことは考えてません』って答えな」と助言されていました。
当時は現在のように多くの団体があるわけではなかったので「解散するから移籍」なんて考えはまったくなかったんです。なので、もうプロレスを辞めるしかないと思って母に電話で相談したら「取りあえず学校に行けば?」と言われて。入門したとき、母と高校卒業認定の学校に行くと約束していたので、団体がなくなったら通信でもいいから「学校に通おう」と思ってました。
解散当日。大会を迎えても全く実感が湧かなかったです。でも全試合が終わった後「こんなふうに団体って終わるんだ。このメンバーでできるのも最後だな」って思ったら自然と涙があふれて大泣きしてましたね。
大会の数日後、事務所に全員が集められて「ジャパン女子プロレスはなくなりましたが、グッズで売り上げたお金が残っているので、このお金で新しい団体をつくろうと思っています。ただ、残る人、残らない人がいると思うけど…」って説明されました。そのとき、上の空で「これから、どうしようかな」ってボケッとしていたので全然話を聞いていなかったんです(笑い)。
気が付いたら何人か部屋から出ていったので、私は隣にいた尾崎(魔弓)に「何があったの?」って聞いたら「お前は座ってればいいんだよ」って。言われた通りそのまま座っていたら、新しい団体でやっていくことが決まっていて…。全くもめることもなく、残った7人で新団体「JWP」が誕生しました。あのとき、尾崎に言われてなかったらプロレスラーを辞めていたと思います。
それからすぐに新団体設立の記者会見をやって、千葉県内で1か月間くらい合宿に行ったんです。新しい団体のスタートにワクワクしつつも、責任感が芽生えてきて…。このときに「キューティー鈴木」の第2章が始まったんです。













