【森脇浩司 出逢いに感謝(38)】津田恒実に脳腫瘍が判明し、1991年8月上旬に福岡の済生会病院に入院してきた。会いに行くと髪の毛もなく、体重も60キロくらいになっていた。意識もほぼなかった。

 ダイエーに所属していた僕はその日、チームが京都・西京極で試合。博多を朝8時台に出発する予定だったので7時ごろに病院に行きました。奥さんが「誰か分かる?」と言ったら、津田の口が声にはならなくてもわずかに「浩司…」と。僕が来たと分かったんです。それがオープン戦以来の再会でした。

 その時は津田の頭の中には野球ができなくなったとか、復活してやるとか、そんな余裕は何もなかったと思う。僕も家族同様に扱ってくれていたので主治医の先生から余命の話になり「今年いっぱいでしょう」と…。覚悟していた自分もいたけど、ショックでした。

 それが10月、11月になってくると、リハビリで車いすで移動できたり、歩けるようになってきた。そこから回復に向かっていくわけです。ナイターの時は試合後に病院に行き、デーゲームは球場に行く前に行く。それが僕の日常でした。それくらいしかできなかった。一緒にいる時間がいい時間だったし、少しでも力になりたかったし、寄り添っていたいなと思った。

 余命と言われた12月に向けてはいろんなことがあった。8月上旬にこっちに来て1か月くらいはよくない過程があって、そこから流動食や固形物を食べられるようになり、10月にはリハビリ室で歩いたり、車いすで一緒に屋上や公園に行ったり…。振り返ってみると一方でよくあることかもしれない。ダメだと言われていた人が案外よくなっていき、だけど最終的には最期を迎える。

 一方で10月には広島カープを契約解除になる。その時はスポーツ新聞を全紙買ってきてくれと言うので買ってきた。それを受け止め、バネにするという思いなのか、それとも1紙くらい「クビは間違いだ」と書いていないかと希望を持っていたのか、それは分かりません。新聞を見ながら泣いていました。

 これはカープとしてもしょうがないよと。俺だって近鉄からトレードがあったし、ケガはしょうがない。だけど、この先一緒にやろうと。「おれ、できるのかな。球団に入れるのかな」と言うので「分かった。すぐにはならないけど、俺がダイエー球団に話してみる。津田がユニホームを着られるようにお願いするから」と言った。

 これはあいつを勇気づけるためだけじゃなかった。しばらくしてダイエーの坂井保之球団代表に「僕の給料から出してもらえばいいので、もし津田が回復してある程度の状態になった時、ユニホームを着させてもらえませんか。野球で生きてきた人間なんで着ることによってある程度の生活ができるようになる。半分、僕の給料を渡してください」と言うと「分かった」と…。そこから彼は驚異的な回復をみせることになったんですね。