【森脇浩司 出逢いに感謝(35)】広島・古葉竹識監督は1985年を最後に勇退されました。2年の短い間でしたが、素晴らしい監督でしたので寂しい思いでした。

 近鉄・西本幸雄監督との違いは何ですか、とメディアに聞かれることがあります。79年、80年と日本シリーズで対戦し、広島の連覇。なぜ古葉さんが勝てて西本さんは勝てなかったのか、ということを聞きたいのでしょう。どちらもとんでもないくらい素晴らしい監督。僕なんかがあえて言わせてもらうのであれば…勝負に対して情が入るのが西本さんで、あくまで非情に徹するのが古葉さん。極端に言えば練習してなくてもできると思った選手を使う。西本さんは努力している選手を使う。どっちも勝負師として人間として素晴らしいですよね。

 86年から阿南準郎さんが新監督に就任。その年、僕はまたしても大きなケガに見舞われました。日南キャンプの紅白戦でのこと。ショートを守ってた僕が三ゴロを回り込んで捕り、三塁に走ってきた二走と交錯したんです。このまま突っ込むとぶつかってケガをさせると思って跳んだら、走者と接触して腰から落ちた。スピードもあって回転もしていたし、かなりの強さで地面にたたきつけられた。

 運ばれて病院には行かずに宿舎で休んでいたんです。その時点では折れているなんて分からない。うつぶせになって腰の上に氷のうを乗せ、痛みに苦しんでいた。そしたら夜になって達川光男さんが部屋に入ってきて「何が痛いんじゃあ」って氷のうをのけて腰を足で踏んでいったんです(笑い)。達川さんにはかわいがってもらっていたし、こんなので負けるなという気持ちだったでしょう。

 それで翌日に病院に行ったら折れていた。医者に写真を見せられ「残念ながら見ての通りです」と…。それを聞いた達川さんは「大丈夫か。俺が踏んだから折れたんじゃないんか」と…。もともと折れていたし、踏まれたからじゃなく、ずっと痛かったんです。後日、「慰謝料くださいよ」って冗談が言えるくらいになりましたけどね。

 また治療の日々が始まる。近鉄の4年目、5年目以上の苦しい状況になった。骨折と分かってさすがにこれは無理だろうと思ったし、おそらく会社もそう思ったでしょう。僕は野球をあきらめた。しばらくして少し痛みが軽減したころ、球団の野崎泰一代表に「23番」のユニホームを返しに行ったんです。他の選手にあげてもいいと思い「自分はこんな体なのでいったんユニホームをお返しします。もし着られるようになったら何番でもいいのでお願いします」と…。

 引退というか、もう着られないと思っていた。心身共にこれを乗り切れるスタミナはない。契約が切れる12月には新しい人生がスタートするんだと…。これで野球ができなくなる、という寂しさと、もうこんなケガもしなくてすむんだという気持ちと…。複雑でした。