【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(22)】1995年に移籍したオリックスというチームは僕のイメージでは「なんでもあり」のチームでした。
仰木監督をはじめコーチも選手も自由でおおらかで、それでいて結果も出す。僕の場合は特に94年までの野村ID野球と95年の仰木マジックのギャップがすごすぎて、真剣に戸惑いましたね。
また、その対極にいる両軍がペナントレースを勝ち上がって日本シリーズで対戦することになるわけじゃないですか。
テレビやスポーツ紙、マスコミを通じて野村監督と仰木監督とが日本シリーズを控えてあおり合うシーンもありましたよね。
その一連の話題の中には僕の話題も当然、出てきました。野村監督が使えないって放出した選手を、俺はしっかり使ってるぞみたいなニュアンスです。これもファンサービスにたけた両軍の知将による話題作りだったんでしょうけどね。
まあ、95年も96年もオリックスのブルペンはむちゃくちゃでしたよ。ベンチには山田久志さんがいて、ブルペンには山口高志さんがいたんですが、もう本当にピクニックのような状態でした。本当に自由すぎました。
それでもみんな結果を残してたんですよね。95年は特にブルペン陣と西武打線との相性が抜群に良かったんです。僕と野村貴仁さん、平井正史は西武に対して防御率ゼロだったはずで、7、8、9の3イニングはノーチャンスに等しかったわけです。オリックスサイドから見ればカード15連勝という戦績が残っていますが、そりゃそうなりますよね。
東尾修監督が就任1年目で西武としてはリーグ6連覇を目指していたシーズンです。清原和博さんの長期離脱や、デストラーデの途中帰国など誤算があったとはいえ、オリックスに5勝21敗というのは想定外だったでしょうね。
年間50試合登板で、勝ちパターンで投げさせてもらっていれば、試合展開から自分の出番というものは分かってきます。当時はイニングまたぎも当然の状態で、登板過多であることはわかっていても、ブルペンにいると山口高志コーチが「悪いなぁ」って感じでこっちを見てるんです。仰木監督からご指名が入ったサインです。
でも、僕はうれしかったですよ。これまではヤクルトにいて二軍でどれだけ抑えても一軍に上げてもらえなかったんですから。
ある日、試合で打たれて降板した後、ダッグアウト裏で右肩のアイシングをしていたときがあったんです。そこで試合をモニターで見ていると、仰木監督が来て言うんです。
「今日は打たれたけど、あれやけどな。明日からまた3ついくからな」って。かなり疲れもたまっていましたから一瞬、耳を疑いましたが、現実のところ体って動けちゃうんですよね。
次のカードは西武3連戦だったんですが、きっちり3試合連続で登板しゼロで抑えることができました。あのシーズンの僕はもうやるしかなかったですから。ヤクルトで悔しい思いをして移籍1年目で結果を出せなかったらクビだって思いは常にありましたから。やりがいを持ってマウンドで投げられることが幸せでした。












