【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(11)】1990年からヤクルトを率いた野村克也監督の高度な野球に対応できず、僕は登板機会を減らしていきました。
イースタン・リーグでは無双状態の投球を披露しても一軍からはお呼びがかからない。自分は嫌われているんだろうなと、メンタル的にダメな方向に向かった時期もありました。
93年は一軍出場なし、94年は2試合のみの登板。そんなとあるオフにふと東スポを読んでいたときかな。ラジオ日本のリポーターをされていて、東スポにもコラムを書かれていた女性リポーターの岩田暁美さんの記事が目に飛び込んできたんです。
岩田さんは巨人・長嶋監督の隣でいつも取材していたことで、カメラに映り込むことが多くて、ファンの方々も覚えてらっしゃるんじゃないですかね。
ヤクルトの取材にもよく来られてました。オフにヤクルトがトレードに動くみたいなことが書いてあって、その内容を読んでいると、どう見たってこれって僕に思い切り当てはまってるんじゃないのと思ったんですよ。
そしたら、実際にそうだったわけなんです。当時の僕にとってはもう、ヤクルトを出ることはチャンスとしか思えなかったですね。
当時、ファームのディレクターの立場で仕事されていたのが、この連載の第9回でも触れた小田義人さんです。僕が高校時代、近鉄のスカウトをされていて、一番熱心に現場まで足を運んでくれた方です。
その小田さんに連れられて、そのまま阪急の球団まで行って入団発表みたいな流れで、バタバタしたことを覚えています。小田さんはオリックス・三輪田スカウトの早大の後輩で、父が経営していた磐田のスナックにも揃って来店してくれていました。
その当時「もしダメだったら俺が面倒見るからいいよ」と話していた阪急・三輪田スカウトの言葉が現実になってしまいました。
ドラフト時に3位でヤクルト、阪急、広島の3球団が競合。抽選を外した阪急に8年ごしで入団する不思議なご縁に恵まれました。
そこからもうすぐに秋季練習、秋季キャンプです。翌年から投手コーチに就任することが決まっていた山田久志さんに、ものすごく練習させられたことを覚えていますね。
ただ、当時は何に驚いたかというと、ヤクルトとオリックスの環境の違いです。もう全然雰囲気が違ったんですよ。当時はプロ野球といえば在京セ・リーグがステータスみたいなのがありました。FA選手もこぞって在京セを希望したものです。
でも、いざオリックスに来てみると取材陣の方々も多くないし、マスコミでの注目度も低いわけです。これが在阪パかと思ってしまいました。正直、当時は「都落ち」だなと思ったものでした。
そして関西には今でも巨大な勢力が君臨し続けていますからね。黄色いメガホンを持っている人たちはみんな阪神ファンです。オリックスがそこそこ活躍するくらいでは注目してもらえなかったですもんね。しかし、ここから僕の野球人生が大きく変わります。












