【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(10)】ヤクルト時代、僕の制球難というイメージが野村監督にクッキリと残ってしまったような試合がありました。1992年6月7日の広島戦です。同点で迎えた延長11回無死一、三塁という状況で僕が登板しました。

 先に結論を言うと、僕はこの試合で投手にサヨナラ押し出し四球を与えてしまいました。「ストライクが入らないのは話にならん」と野村監督の逆鱗に触れ、翌日から二軍です。

 ただ、ここで少し言い訳させてください。どういう経緯で無死一、三塁のピンチとなり僕が登板し、どういう展開でサヨナラ押し出しになったのか、詳細を聞いてもらいたいなと思うんです。

 僕が登板する前には6番手で変則左腕の角盈男さんが投げていました。ただ、もうどうにもならない状況で無死一、三塁のピンチを残して降板するという形になりました。

 もうほぼ負けだから、というような状態です。7番手で投手・鈴木平。まずは満塁策で最初の打者に四球です。そして、次打者を三ゴロに仕留め5―2―3の併殺とし、二死二、三塁に場面が変わりました。

 ここまではナイスピッチングです。一塁が空いていたので敬遠で二死満塁。ここで打席に投手の望月秀通さんを迎えることになりました。

 ベンチとしては最大のピンチを切り抜けて、打席に投手ということで抑えて当然と期待していたことでしょう。しかし、結果は投手を相手にサヨナラの押し出し四球です(負け投手は角)。

 そこから92年は一軍に二度とお呼びがかかることはありませんでした。試合後には角さんが、僕のところまでわざわざ来てくれて「平、ごめんな。寂しい思いをさせてしまって」と声をかけてくれました。

 当時の主力野手だった広沢さん、池山さんにも宿舎で「今日は残念だったな。でも次、頑張ろうや!」と慰めてもらいました。でも、翌日から二軍だというと絶句してましたね。

 新聞表記上の見出しでは「鈴木平 打者4人に3四球 投手に押し出し四球で延長サヨナラ負け」です。当時の自分は絶対的な抑えでもないですし、あの場面で登板して負けても責められる立場ではなかったと思います。

 でも、です。投手を相手にストライクを投げられなかった自分が悪いんです。二軍に落とされた自分が悪いんです。野村監督はあの場面でストライクを投げられる人材が必要だったんです。僕は野村監督が当時、使いたい「駒」ではなかったんです。

 翌93年、僕は一軍では1試合も投げていません。94年は2試合、1回1/3で防御率20・25という成績です。もう話にならないな。半分あきらめているような自分もいました。

 こうなってくると自分は監督や首脳陣に嫌われているんだろうなと思ってしまったりもしました。本当はダメなんですけどね。何ていうのか言い訳を探している自分もいたような気がします。
 そんな時、ある新聞記事が僕の目に入ってきました。