【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(9)】1987年ドラフト3位で関根潤三監督率いるヤクルトに入団。最初の2年間はいい意味で大胆に野球をさせてもらっていました。
2年目にはプロ初勝利、初完封も経験するなど2勝を挙げました。しかし、入団3年目に野村克也監督が就任されてから、僕の野球人生は大きく変わりました。
「さあ、思い切っていけ!」という野球から、過去の経験則に基づいた「ID野球」へとヤクルトの野球が変革する時でした。とにかく腕を振って強いボールを投げればいいという概念から、この状況、このカウントではここに投げなさいという野球に変わったわけです。
野村監督の体制になった90年は2試合の登板です。それでも、当時の僕は二軍ではほぼ無敵の状態でした。福富邦夫二軍監督をはじめ、二軍投手コーチの梶間健一さん、浅野啓司さんにもすごくかわいがってもらいました。
「イースタンで抑えたから一軍昇格を推薦するんだけどな、野村さんが『バッテン』って言うんだよ」って言われたこともありました。
しょうがないなあ。なんかもう監督が次に変わるまで無理だなみたいに思っていた時期もありました。それでも多くのチーム関係者から「いろんなチームから誰かが来て、必ず君のことを見てくれているから、腐らずにやっておけよ」と口を揃えて言われていました。
当時、日本ハムで二軍監督をされていた種茂雅之さんは磐田出身の大先輩で、あいさつに行くといつも「腐らずやれよ」って声をかけてくれました。こういう皆さんのおかげでメンタル的には維持できていたと思います。
僕がドラフトされた時は3位で3球団の指名が競合しました。当該球団はヤクルト、阪急、広島でした。実際に現場に最も足を運んでくれていたのは指名のなかった近鉄の小田義人スカウトでした。この方は静岡出身で早大からヤクルト、近鉄などでプレーされ、スカウトとしては近鉄・赤堀元之やヤクルト・青木宣親の獲得に尽力した方です。後にヤクルトのコーチもされ、ご縁のある方でした。
同じようによく現場に来られたのは阪急の三輪田勝利スカウトです。三輪田さんも早大出身で小田さんの先輩にあたる関係でした。磐田市内で僕の父が昔、スナックを経営していたんですが、早大つながりもあり小田さんと三輪田さんが来店されることがありました。近くで社会人野球の視察などがあるとよく見た光景でした。
ドラフトの結果はヤクルトが交渉権獲得で、僕は担当の巽一スカウト、羅本新二スカウトにお世話になりました。ただ、その後も阪急・三輪田さんが「もしダメだったら俺が面倒見るからいいよ」みたいに冗談で言ってくれていたんですけど…。本当にそれがその後のオリックス移籍で本当になってしまうなんて、当時は夢にも思わなかったですね。
僕にとってプロ3年目からしばらくは苦しい時期でした。それでもいろんな方々の支えでプレーさせてもらっていました。
野村監督に使ってもらえないのは僕に実力がなかったからです。自分はできるのに使ってもらえないと言っているうちは世間では「ぐち」としかとらえてもらえません。結果を出して初めてそれが分かるのです。あの時期にみなさんに支えられ腐らずプレーしたことが、後のオリックスでの活躍につながったのだと今は思っています。












