【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(5)】1988年にヤクルトの投手としてプロの世界に足を踏み入れ、94年までの7シーズンを過ごしました。そこでももちろん大事な経験を積ませていただきました。
95年からはオリックスに移籍して野球人生が激変したわけですが、つくづくプロ野球の12球団にはいろんな野球があって、それぞれに違うんだなということを感じます。
投手である僕にとっては同じ球団でも投手コーチや監督によってもものすごく環境が変わるわけです。野村克也監督時代の僕は「ここに投げなさい」という緻密な野球についていくことができませんでした。
ただ、オリックスに移籍して山田久志投手コーチから「お前はボールに力があるんだから、思い切って腕を振ればいいんだよ。大胆にいこうや」と言われても、今度は「本当にそれでいいの?」という気持ちにもなるわけです。
良いか悪いかは自分の判断であり、あくまで自己責任だと思いますが、それだけ環境によって野球観が違うんだよというのは今となっては学びです。
本当にセ・リーグ、パ・リーグ12球団あればそれぞれに違う野球があるから面白いんだと思うんですね。みんな同じ野球をやってないから、だから選手たち個々がそれぞれにアジャストできるかどうかなんですよ。
僕がヤクルトに最初に在籍した当時、監督は関根潤三さんでした。そのとき、一番最初のピッチングコーチとしてお世話になったのが松岡弘二軍投手コーチでした。
松岡さんといえば通算191勝を挙げたヤクルト生え抜きのレジェンドです。ただ、その当時は引退直後で若かったんですよ。
ブルペンではマスク、プロテクターを着けてブルペンキャッチャーをしてくれました。そんなのプロの投手コーチでいませんよ。そんなことを普通にやってくれてたんです。あれほどのスター選手が。
大の話し好きで楽しい人でした。でも、どんどん話し続けるうちに興奮して話が収拾つかなくなって「自分でも何を言ってるか分からなくなっちゃったよ。さあ、いこう!」みたいになっちゃう人でした。それでも選手思いのすごくいい人でした。
松岡さんの口癖は「タイミング」でした。「そうタイミング、タイミング。もうとにかくタイミングだ。タイミングとバランスだぞ」ってことをずっと言われていました。
でも当時プロ1年目、18歳の僕ではその意味を的確に理解できないんですよ。でも、何が何だか分からないうちに1年目から一軍に上がらせてもらったんです。
一軍登板はなかったんですが、一軍に帯同させてもらいました。関根監督に安藤統男作戦コーチ、小谷正勝投手コーチという3首脳がチームの指揮を執っていました。
なぜかすごく気に入ってもらっていて、何かあれば「平(へい)ちゃん、平ちゃん」と呼んでもらって、かわいがっていただきました。
1年目は成績を見ていただければ分かるように一軍登板はゼロなんですよ。それでも一軍に帯同させてもらって、初めて行った甲子園の印象なんかはすごく鮮明に覚えていますね。












