【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(3)】ヤクルトからオリックスへの移籍1年目の1995年、僕は野球選手として飛躍しました。ヤクルトでは計7シーズンで3勝です。93年のヤクルトは野村克也監督4年目のシーズンで、2年連続リーグ優勝、15年ぶり2度目の日本一にも輝きました。そのシーズン、僕は登板ゼロに終わっています。翌94年は2試合の登板でトレードとなったわけです。
ただ、当時の自分はイースタン・リーグでは無敵の状態でした。それでも、一軍からは声をかけてもらえませんでした。当時の僕は細かいコントロールがなく、野村監督が求める優勝するための「ピース」ではなかったのです。
それでも、球団には「腐るなよ。頑張れよ。必ず誰かが見ているから」と声をかけてくれる方々の存在がありました。そう信じて投げ続けた結果、トレードでオリックスに移籍して活躍することができたということでもあります。
95年の日本シリーズ、グリーンスタジアム神戸からスタートしたのですが、練習から上がってくるタイミングで当時のヤクルト・田口周球団代表に声をかけていただいたんです。
「平、良かったなあ、おめでとう。今シーズン、すごい頑張ったよなあ。(日本シリーズでは)絶対に抑えろよ」
田口さんの周りには関係者の方々もたくさんいたんです。普通はこれから戦うチームのセットアッパーに「絶対に抑えろよ」はダメですよね。でも、ああやって言ってくれたことはすごくうれしかったです。ヤクルトでも大事に思ってくれていたんだろうなという気持ちが伝わってきました。「俺は本当は残したかったんだよ」と間接的に伝えようとしてくれたのかもしれません。
ヤクルトにいた最後のころの自分は、野村監督には相手にされていないレベルの投手だったと思うんです。名言で「無視・称賛・非難」というおのおののレベルがあるとおっしゃられていましたが、僕は無視よりも、その下のレベルだったと思います。
当時は92、93年のヤクルト連覇の直後ですし、野村監督の発言力、影響力はチーム内では絶大だったと思われます。野村監督の意向が重視され、その野球にフィットできなかった僕が放出された形だったのでしょう。それでも、チーム内には期待してくれていた方々がたくさんいて、95年の活躍で少しは恩返しができたかなと思います。
実は98年オフ、ヤクルトが野村監督から若松勉監督の体制になる時に「戻ってこないか」と電話をいただいたことがあったんですよ。
ただ、当時の僕はオリックス・仰木彬監督に見いだしてもらった恩がありましたので、戻りますとは返事できませんでした。
僕は野村監督の戦略的な将棋の「駒」ではなかったということです。ただ、期待も何もされていなかったかというと、そういうわけではなかったと思います。日本シリーズでの練習中、打撃ケージ裏に「お世話になりました」とあいさつに行ったんです。その時は「俺はお前が嫌いで出したわけじゃないからな」とおっしゃられてました。こちらは「はい」としか言えなかったですけどね。このやりとりがほぼ唯一の2人でのまともな会話です。












