【門倉健 7球団奮投記~行けばわかるさ~(22)】2003年オフにトレードで近鉄から横浜に移籍したことは僕の野球人生の中でとてもプラスになりました。横浜には東北福祉大の先輩である佐々木主浩さん、斎藤隆さんというものすごい人たちがいて、いろいろと教えてもらうことができたからです。佐々木さんからはフォークボール、斎藤さんからはスライダーを教わりましたし、何より昔から憧れていた大先輩と同じチームになったことで“もっと頑張らなきゃ”ともう1回自分にスイッチが入りました。
ところが04年のシーズン途中で思わぬことが起こります。後半戦から僕は中継ぎに回っていたのですが、守護神の佐々木さんが8月に故障のため戦線を離脱。すると小谷投手コーチは僕、木塚、川村さん、加藤の4人を呼び、今後のリリーフ陣の起用法について話をしたのです。僕は木塚が佐々木さんの代わりに守護神を任されると思っていたのですが、小谷コーチはなんと「抑えは門倉でいくから」と言うではないですか。これには本当に驚きました。
指名されたからには腹をくくってやるしかありませんが、何といってもあの佐々木さんの代役です。しかも僕はそれまで抑えをやったことがありません。正直、不安でした。
そこで僕は佐々木さんが横浜スタジアムのロッカーに来た時に「佐々木さんが身に着けているものをいただけませんか」とお願いをしたのです。ゲン担ぎというかハマの大魔神のパワーにすがりたいという思いもありました。僕と佐々木さんは靴のサイズが同じ28センチだったので「スパイクをもらえませんか」とお願いしたところ、「おお、いいぞ」と快く了承していただきスパイクを2足もらったのです。
そして8月15日の巨人戦、初めてストッパーとして9回のマウンドに上がりました(もちろん佐々木さんからいただいたスパイクを履いていました)。ドキドキでしたが、抑えは初めてなので同点までは仕方ない。そう開き直って投げると、何と3人でピシャリ。僕はプロ入り初セーブを挙げることができたのです。このときは本当にホッとしました。
とはいえ、やはり抑えというポジションはプレッシャーが半端なかったです。日々、緊張の中で野球をやっていて眠れない日もありました。「最後のポジションを任されるってこんなにストレスがかかるんだ」。体重も4、5キロ落ちていきました。それでも必死に投げて後半だけで10セーブを記録。抑えとしてそれなりには投げることができたと思います。
でもこの年の横浜は59勝76敗3分けで3年連続の最下位。山下監督はこの年限りとなり、牛島新監督が就任しました。そしてこの牛島監督との出会いが、僕に10年目の飛躍をもたらしてくれることになったのです。












