【赤坂英一 赤ペン!!】いよいよWBC開幕を目前に控えて、ネットでもメディアでも「侍」の文字を見ない日はない。そのたびに、日本代表が初めて「侍ジャパン」と命名された2009年第2回大会で、果敢な采配を振った巨人・原監督の証言が思い出される。

「日本代表の監督に就任するにあたり、チームに何か新しい名前をつけてください、と私の方から(加藤)コミッショナーにお願いをしました」

 原監督に直接そう聞かされたのは、ジャパンの監督就任が発表されて間もない08年オフ。雑誌の仕事でインタビューしたときのことだった。

 日本代表はそれまで、04年アテネ五輪の長嶋ジャパン、06年第1回WBCの王ジャパン、08年北京五輪の星野ジャパンと監督の名前で呼ばれていた。原監督も当時巨人でリーグ優勝3回、日本一1回という結果を残しており、「原ジャパン」を名乗っても文句はつかなかったに違いない。

「いや、それはおこがましい。私にはそれだけの実績がありませんから」

 原監督はなぜ、自分の名前を使うことを遠慮したのだろう。もともとNPBに是非にと請われて日本代表の監督に就任したわけではなかったからかもしれない。

 当初の最有力候補は星野氏だったが、08年の北京五輪でメダルを逃したばかり。「WBCは五輪のリベンジの場ではない」と主力打者のイチローが発言したこともあって消滅した。

 中日・落合監督、楽天・野村監督の名前も挙がったが、次々に立ち消えとなる。選考委員のヤクルト・高田監督が「08年の日本一監督(西武・渡辺)でどうか」と提案したら、こちらも「西武監督2年目で荷が重い」と固辞されたという。

 こうして自分にお鉢が回ってくると、原監督はこう漏らしている。

「まったく予想していませんでした。球界のためにも、早く(別の)誰かに決まればいい、と思っていたぐらいです」

 就任要請を受諾するにあたっても、自分から当時の滝鼻オーナーに「お伺いを立てました」という。やっと監督就任が決まると、父・貢さんに励まされたそうだ。

「球界の先輩が、みんなでお前を選んでくれたんだ。思い切って自分の野球をやってきなさい」

 そうした様々な巡り合わせを経て、原監督は世界一を達成し、侍ジャパンは確固たるブランドとなった。その原監督と親交のある栗山監督が侍たちを率い、09年以降3大会ぶりの頂点を極めることを祈りたい。