【平成球界裏面史 松坂シドニー五輪編】温和な元五輪メダリストが初めて声を荒げた瞬間だった。
「大輔、その質問には答えなくていい。皆さんも軽々しく聞かないでほしい」
平成11年(1999年)オフのことだった。シドニー五輪を翌年に控え、初のプロ野球選手の五輪派遣について検討されていた時代だ。
取材を進める中で西武・松坂大輔投手にJOC(日本オリンピック委員会)が五輪の旗手を依頼する可能性もあるという情報を入手。「五輪旗手に興味は」という質問を投げかけた時に事件は起こった。
当時、松坂専属広報を務めていた黒岩彰氏(カルガリー冬季五輪銅メダリスト、のちの西武球団代表)は、五輪の重みを最も知る人物の一人。
「今回、プロ野球選手が五輪に初めて参加できるようになる流れがある。そこに大輔も選ばれることは素晴らしいこと。でも、それ以前から長い歴史を作ってきた先人のことも考えてください。五輪に命をかけてきたアマ選手が大勢いるんです。その立場を考えず、旗手なんて軽々しく論ずることではないと僕は思っています」
全くもっての正論だった。それでも、当時は一般へ向けての五輪人気を考えなくてはいけない時代でもあった。スポーツ人口の減少や五輪への無関心という問題は当時から存在した。五輪への認知度アップを図りJOCにも思惑があったことは事実だ。
実際、92年バルセロナ五輪では米バスケ最高峰リーグNBAのスター集団で結成した「ドリームチーム」が世界を席巻した。人気絶頂だったマイケル・ジョーダンを筆頭に圧倒的実力を見せつけた米国代表は圧巻。熱視線が世界中から集まった。
五輪への認知度とNPBの人気を高める上でもプロ野球選手を利用しない手はない。98年に甲子園で春夏連覇。西武で1年目から16勝で最多勝、新人王と人気絶頂だった松坂に頼る流れは不可避だった。
結局、シドニー五輪へのプロ参加については「五輪はアマ選手の大会であるべき」との意見が噴出。プロ側もパ・リーグが積極的である一方、セ・リーグは慎重で「プロアマ混成チーム」という落とし所で決着した。「日本版ドリームチーム」は実現しなかった。
日本選手団の主将はアトランタ五輪銀メダリストで「ミスター・アマ野球」の杉浦正則投手。旗手には柔道の井上康生が指名され、「松坂旗手」は実現しなかった。
エースとして大会に臨んだ松坂は米国、韓国戦と韓国との3位決定戦の試合で先発したがチームはいずれも敗北しメダルなし。
松坂はロッカールームで悔し涙を流すナインの姿を見てもらい泣きした。帰国して西武に合流したときにはこんな言葉を残した。
「シドニーでの悔しい思いを、いい経験だったで終わらせるのか、それを生かして財産にするかは自分次第。4年後にまた選んでもらうために、目の前のシーズン、ペナントレースを全力で戦っていきます。そして4年後に悔しさを晴らしたいですね」
4年後、松坂はアテネ五輪のエースとしてまた、ドラマを演ずることになる。
















