【武藤敬司の軌跡(16)】 WCWでマネジャーのゲーリー・ハートの助けもあって誕生したグレート・ムタは1989年4月のスティーブ・ケイシー戦でデビューした。
ぶっちゃけ最初は「無」だよ。底辺からハートとともに上がってきてスティングとやることで引き上げてもらった。あいつとやったことによって、ムタのステータスは生まれたんだ。手が合った? そうだね。あいつも飛んだりするのが武器だったから。WCWのエースで群を抜いてトップだった。ルックス、キャラ、肉体とトータル的な魅力があったよね。運動能力も高かった。
俺とスティングがやっていた1年くらいは少しWCWに追い風が吹いたと思うよ。実際、向こうでも多くの現役のレスラーたちから「子供のころ、ムタの試合を見てレスラーを志した」って言われるよ。WWEのNXTでも(育成機関の)パフォーマンスセンターでムタの試合映像が教材で使われてるらしいよ。ムタはWWEには出てねえんだけどさ(笑い)。
スティングとの抗争の後には「狂乱の貴公子」と呼ばれたリック・フレアーとの戦いにも突入した。実は、フレアーは1回目(86年)のフロリダ遠征の時に初めて会っていたんだ。当時、俺が戦場にしていたNWA傘下の団体にたまにフレアーがきて、現地のトップどころと試合をしていてね。当時の米国は、選手に払われるお金のシステムは、ハウス(ゲート収入)のパーセンテージだったから。フレアーが試合すると、ハウスがバーッと上がって、俺たちのギャラも上がるから「チャンピオン様様だ」ってみんな思っていたよ。
当時はリングで全く絡まなかったけど「なんでこんな地味なのにお客受けしてるんだろう」とか思ったりしていてね。俺としては、彼からアメリカで這い上がる攻略法みたいなものを勉強させてもらっていたんだ。
そんなかつて憧れたフレアーとの戦いは感慨深い…なんて思ってる暇もなかった。もう毎日、フレアーのNWAに挑戦していたから。毎日フレアーの足4の字固めをくらってね。まあでもこれはお互いさまだ。フレアーも毎日毒霧を浴びてブロンドの髪の毛が緑色になっていたから(笑い)。余談だけど、4の字というものをキーワードに試合を構築するっていうのは、この時に学ばせてもらった。それを俺が日本流にアレンジしたというかね。その後はテリー・ファンクとも組んだな。最終的にはテリーと俺、スティングとフレアーで金網マッチまでやったよ。10月の「ハロウィン・ハボック」のメインで、レフェリーが「人間発電所」のブルーノ・サンマルチノだった。
こうして順調にキャリアを積み重ねる中、意外な話が舞い込んで帰国に至ることになるんだ。













