【武藤敬司の軌跡(15)】ブルーザー・ブロディの刺殺事件(1988年7月)をきっかけに、俺は桜田一男さん(ケンドー・ナガサキ)とプエルトリコを離れることになり、米テキサス州のダラスに入った。そこで向かったのがアイアンクローの開祖で「鉄の爪」とも呼ばれていたWCWAのフリッツ・フォン・エリックのところだ。
WCWAには「スーパー・ブラック・ニンジャ」として、父親を倒したエリックに復讐するためにやってきた…っていうことでリングに上がった。だから必殺技はエリックが父親を倒したアイアンクローだったよ。ダラスはザ・グレート・カブキの生まれた地だったんで絶大な人気があったんだ。で、カブキは1対3のハンディキャップマッチをやったことがあるからって、俺は1対4で試合させられてさ。大変だったよ…。結果は? そんなもん、勝つに決まってるだろ!
88年末には、そのWCWAがテネシーの団体に買収されたんだけど、そのタイミングでWCWからスカウトが来たんだよ。できたばっかりの団体だったけど、(米ケーブルテレビ局)CNN創業者のテッド・ターナーがオーナーでテレビ中継があって、NWAも買収していて勢いがあった。
最初の連絡はヒロ・マツダさんからだったと思う。「ジョージ・スコットっていうボスがお前のことをすごい気に入っているから、1回トライアウトに来い」って言われてアトランタに行ったんだよ。それで1試合させられて、そこからは一気にいったな。合格した時の気分? 正直、全然うれしくなかった。「こいつら、やっと俺を見つけたな」って思ったよ。いいレスラーとやる時、全部を自分と比較して「何が足りないんだろう」って疑問を感じながらやってたからな。
そこで普通ならマツダさんが俺のマネジャーになる流れなわけだ。ところがマツダさんはすでに「ヤマサキ・コーポレーション」っていうユニットのマネジャーをやってたんだ。だから、ザ・グレート・カブキの“育ての親”のゲーリー・ハートが俺のマネジャーになったんだよ。これによってグレート・ムタが生まれるんだ。ペイントした俺の姿を見た彼のアイデアで、カブキの息子「グレート・ムタ」として戦うことになったからね。
そこから少しずつ、ゲーリーと一緒にムタをつくり上げていったよ。毒霧だって最初から吹いたわけじゃない。最初は口元から毒を垂らすくらいで、徐々に徐々に浸透させていった。まずはエディ・ギルバートと抗争をしてね。その女マネジャーのミッシー・ハイアットに毒霧だよ。レディーファーストの国だからお客がもう怒って怒って…。そこからスティング、リック・フレアーとの抗争と続き、ムタの名は上がっていくことになったんだ。














