【武藤敬司の軌跡(14)】2度目の海外遠征はプエルトリコから始まった。1988年1月に渡ったんだけど、当時はすごくいいマーケットだったよ。WWCっていう団体で、スタジオもしっかりしたものを持っていた。そこであおり映像なんかのテレビ撮りも全部できる。何がいいって、小さい島国だからどこでも日帰りができるんだよ。首都のサンフアンっていう街からはどんなに遠くても3時間くらいしか、かからないのも良かった。
試合は向こうに渡ってすぐ出ることになったよ。本当は右ヒザの手術を受けた直後だったから少し休むつもりだったけど、欠員が出て「代わりに出てくれ」って言われて、そこからは気に入られて出続けるようになった。今思えば、あの時にもう少し休んでおけばよかったなあ…。ファンの気質? 米国との違いはそんなに感じなかった。郷に入れば…で、そんなに問題はなかったよ。
順調だったプエルトリコを離れた理由は、7月のブルーザー・ブロディ刺殺事件(※)だ。5日くらい連続で野球場でのビッグショーがあったんだけど、その初日だった。最初は「ブロディがファンに刺されたらしい」って聞いたんだけど、翌日になったら「ブッカーのホセ・ゴンザレスが刺した」ってなってさ。それで米国から来ている選手らが怒ってボイコットして、母国に帰りだしたんだ。
俺も行動をともにしていた桜田一男さん(ケンドー・ナガサキ)と相談して「先々を考えたら出るわけにいかねえだろ」ってなって、ボイコット組に入った。それでいったん米テキサス州のダラスに向かって、桜田さんの家に世話になることになった。この決断がグレート・ムタの誕生につながるんだけど…。
そういえば闘魂三銃士の結成もプエルトリコだったか。橋本真也と蝶野正洋が来て「闘魂三銃士だ!」っていうことで写真を撮って、何かよく知らないうちに結成されてたよ(笑い)。そしたらその後、7月に有明コロシアムで3人でタッグを組むからって一時帰国させられてさ。正直、あんまり帰りたくはなかった。「対日本」を考えた時に、ちゃんと消えていた方がいいじゃん。
その年末も6人タッグのトーナメントをするとかで闘魂三銃士として呼ばれたけど、もう帰らなかった。その時は米国で試合もあったし「こっちで生きていくから」ってことで断った。でも、それで良かったと思うよ。ここで崩れたから「闘魂三銃士」ってユニットじゃなくて「くくり」というか「概念」になったから。「組まないけどくくりがある」っていうのが後々、都合が良くなったよ。
※ 全日本、新日本で活躍した名レスラー。88年7月の興行中にゴンザレスと口論になり、腹部を刺されて出血多量で死去。享年42。













