【平成球界裏面史 新庄引退騒動編】「野球の実力がない、センスがないと見切った」…。平成7年(1995年)11月19日、阪神の契約更改後の会見で〝虎のプリンス〟こと新庄剛志がまさかの引退宣言し、多くのファンや関係者を驚かせた。理由はシーズン途中に代理監督に就任した藤田平氏との確執とされた。

藤田平監督(左)と新庄の微妙な距離感(1996年5月)
藤田平監督(左)と新庄の微妙な距離感(1996年5月)

 この年の新庄は足の故障で成績が奮わず、二軍でのリハビリ生活も多かったが、7月に鳴尾浜で両者の溝を深める〝事件〟が起きる。新庄が集合時間に遅れたとして藤田二軍監督が激怒。新庄はトレーナーと別メニューを話をしていたというが、受け入れられず、罰としてグラウンドに正座させ、守備練習まで命じた。二軍打撃コーチとして現場にいた柏原純一氏はこう振り返る。

「僕は遠くで見てて何をやっているんかと思ったよ(笑い)。理由をあとで聞いたら足首が悪くてトレーナー室に行ってたから集合に遅れたと。そのあと、藤田さんは新庄に外野で個人ノックをやらせた。足首やっているのに…。そもそも正座もおかしいし、個人ノックだよ。それに治療して遅れたならトレーナーを呼んで、そういうことなら先に報告しなさいって言うでしょ。周りにいたスタッフや選手もみんなおかしいって思ったんじゃないかな。代理監督が決まっていたし、藤田さんのやる気の表れだったのかもしれない」

 その後、一軍の中村監督の途中休養に伴って藤田二軍監督が昇格。シーズン後には体の治療に専念するつもりが、若手教育の場である四国黒潮リーグ行きを命じられ、さらに師と慕った柏原コーチも退団…。不信感がピークに達した新庄は契約更改の席でトレードを直訴し、2度目の交渉後に「センスがないから」とまさかの引退宣言をする。

新庄に声をかける柏原コーチ(1999年6月)
新庄に声をかける柏原コーチ(1999年6月)

 当然ながら周囲は慰留し、セ・リーグ会長まで説得に乗り出すなど大騒動に発展したが、柏原氏は「藤田さんとの関係を知っていたからそれほど驚かなかったよ。右ヒジが悪いのに秋の教育リーグに行けと言われ、ヒジが飛んでもいいんですねと…。そういう伏線があった。悩んでいるというより、藤田さんとやるのが嫌だったと思う。それをセンスがない、とか親が具合が悪いとか、口実にしたんじゃないかな」と明かす。「今やめたら負けになるぞ。もったいないぞ」と必死に説得したが、頑として聞かなかったという。

 2日後の21日、新庄は引退をあっさり撤回した。「病気の父親を勇気づけたい」「心配をかけて申し訳ありません」と頭を下げ、事態は収束。「おそらく親に説得されたと思うよ。周囲からもいろんな話を聞かされたんだろう。でも人騒がせなやつだよねえ」(柏原氏)

2日後に引退撤回残留会見(1995年11月)
2日後に引退撤回残留会見(1995年11月)

 お騒がせ男の本領発揮といったところだが、柏原氏は自らが退団する際、球団フロントに「どうやったら阪神が強くなると思うか」と聞かれ「もっと選手をかわいい財産と思わないとダメですよ。厳しくするのも必要だけど、その裏に愛情がないとダメ」と忠告したという。低迷脱出に必死にもがいていた当時の阪神。厳しい指導の陰で、1人の有能な選手を危うく失うところだった。 (※文中敬称略)

2人のすれ違いを間近で見ていた柏原コーチ(当時)
2人のすれ違いを間近で見ていた柏原コーチ(当時)