【武藤敬司の軌跡(4)】1980年、山梨・富士河口湖高3年生になってみんなが進路を考え出したころ、俺は柔道整復師になることに決めていた。柔道で大学の誘いも何校かあったけど、進学するつもりはなかった。それより、柔道を教わっていた佐野接骨院の佐野一正先生が当時、山梨の長者番付で2、3番にくらい入るくらいの羽振りの良さで、そこに夢を感じちまったんだよ。

 俺が高校を卒業する81年当時、接骨院はまだ「儲かるビジネス」だった。まだそんなにメジャーではなかったから。専門学校も全国に数か所しかなくて。俺は東北柔道専門学校(現仙台接骨医療専門学校)に行って2年間の寮生活を送ることにした。ちなみに当時はプロレスラーなんて、将来の職業としては身近になかったね。遠い次元の違う世界のこととしか思っていなかったよ。

 

西良典と武藤(08年8月)
西良典と武藤(08年8月)

五輪出場は考えたことはないのかって? ないない。柔道なんて強い選手がいっぱいいるんだから。山梨でいくら強くても、県外に出たらもっと強いやつがいっぱいいる。そう思うようになったのは高校くらいだったかな。現実を知ってショックだったか? それよりは「そんなもんだろうな。世の中は広いから」って思っていたよ。

 そういう意味でも、柔道整復師になれば儲かるし、なにかしら柔道に携わりながらできると思った。その時は佐野先生が月謝を取って子供を集めて柔道教室をやっていたからそれを手伝ったりとか。だから、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95キロ以下級で3位になって全日本の強化指定選手にも選ばれたけど、その練習には1回も行ってない。ぶっちゃけ、国家試験があるからそれどころじゃねえんだよ。でも、おかげで資格はちゃんと取ることはできた。

 学校は強い選手が集まっていたよ。県でトップクラスに強いやつは有名な大学に行くけど、その次くらいな人がみんな来ていた。あとは大学を卒業した人たちも来ていたね。その中で、俺の1学年上にいたのが、後に和術慧舟會を設立し総合格闘家となる西良典先輩だよ。向こうは拓殖大学を卒業。当時は入試みたいなのに学科に加えて柔道もやらされてね。その相手が西さんだった。

 それから西さんと仲良くなってね。たまに柔道の帯をロープ代わりにして、人間がコーナーポストになってリングをつくって異種格闘技戦というか、プロレスごっこをさせられたんだよ。あのころ、西さんは柔道より大道塾っていう空手に夢中で。「空手VS柔道」みたいな(笑い)。

 よく考えたら、当時に専門学校を卒業して柔道整復師にならなかったの俺ぐらいじゃねえかな。西さんでさえ開業してるし…。俺が整復師をあきらめてプロレスラーを目指したのは、インターンとして地元の山梨に帰ってからだ。

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