【武藤敬司の軌跡(2)】俺が最初にしたスポーツは柔道だった。小学校2年生だった1969年に放送が始まったテレビドラマ「柔道一直線」がはやってね。その影響でみんながやりだしたからつられて、公民館の集まりに参加して始めたんだ。でも1年もやってなかったと思う。

 そのころの憧れは仮面ライダーだった。親戚のおばさんに「敬司、仮面ライダーは改造人間だから。市立病院に行ったら改造してくれるよ」って言われて、行くかどうか本気で悩んだんだよ。その結果、今、夢かなって(人工関節の入ったヒザを叩いて)この通り改造人間だ(笑い)。

 柔道を辞めた後は小学校5年生くらいから野球を始めた。こっちは朝の練習に行くと、パンと牛乳をもらえたから、それを目当てにね。プロレスをテレビで見始めたのもそのころだった。ただ新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」が放送されていた金曜日の夜8時は裏に「太陽にほえろ!」。土曜夜8時の「全日本プロレス中継」も裏でドリフの「8時だョ! 全員集合」をやっていて。テレビ欄を見て面白そうな方を見ていた。

 当時はなぜかマッチョが好きで外国人の選手をよく応援していたよ。スタン・ハンセンとかミル・マスカラスとか、ブルーザー・ブロディとか。あとは(アントニオ)猪木さんとストロング小林さんの試合も見た記憶がある。猪木さんはなんて言ったって異種格闘技だった。モンスターマン(※1)はかっこよく見えたな。柔道をやってたからウィリエム・ルスカ(※2)を応援していた。

アントニオ猪木に“柔道世界一”ウィリエム・ルスカが挑戦した(67年1月)
アントニオ猪木に“柔道世界一”ウィリエム・ルスカが挑戦した(67年1月)

 親父の明光は職人で造園業をしていた。いわく富士急ハイランドにある200分の1の“ミニ富士山”を造ったそうだ。若いころには東京に修行しに来ていて、皇居とかも入っていたらしい。

 ちゃんと“職人”だったよ。例えば冬に雪吊りっていって、松の枝を縄で吊って折れないようにする。その時、松の一番てっぺんに竹の棒で笠みたいのを編んでそこから縄を張っていくんだけど、親父のはほかの職人の仕事に比べてキレイでさ。子供のころから親父の仕事はすぐ分かった。自分の形を持っていた。得意技というか。枯山水を造るのも得意だった。そういう細部にこだわるのは親父譲りなんだなって思うんだよ。月面水爆のフォームとか。

 当然、職人だから気性も激しかった。中学校くらいで取っ組み合いのケンカをしてさ。向こうがほうきを持って向かってきたから、こっちはブルース・リーに憧れて買ったヌンチャクで抵抗した。そんな親父だったよ。で、だ。中学からは柔道を再開したんだけど、そこで意外な人物に会うことになったんだ。

※1 77年に猪木と対戦した米国出身のキック王者
※2 72年ミュンヘン五輪で柔道重量級2冠

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