【武藤敬司の軌跡(3)】1975年に地元山梨の下吉田中学に入って野球は2日で辞めたよ。球拾いが嫌だったから。それで昔、少しかじった柔道部に入ったんだ。

 中学生ってかっこつけるじゃん。茶帯の時はハイターで色を落としてコンクリートでこすってボロボロにし、年季があるような雰囲気にしたのを覚えてるよ。黒帯(初段)は3年生の時。県内で同級生の黒帯は俺のほか3人だった。そのうちの1人は同じ中学だから対戦はなかったけど、残り2人には勝ってるからな(ニヤリ)。3年生の時には山梨県大会の団体戦で1位にもなった。

 高校は近くて優秀な地元山梨の吉田高に行きたかったんだけど、当時は「総合選抜」っていう制度があって自分で学校を決められなくて。富士河口湖高に行くことになった。富士山のふもとでね。自転車で通うんだけど、朝はずーっと上り坂だから、朝のホームルームは全員汗だくだった。家から30分くらいかかった。いいトレーニングになったよ。毎朝足がパンパンだった。

 当時、富士河口湖高はできたばかりで、俺たちが2期生だった。たぶんそういうこともあって指導者がいなかったんだよ。顧問はいたけど柔道をやったことのない人でさ。練習場もなくて1年の時は余った教室に畳を敷いてやってたんだ。

 だから練習は教え合うもくそもない。乱取りとかをやみくもにやるだけだった。ただ、同時にガキのころに通っていた町道場へ再び行くようになっていた。夜は「青年部」みたいな感じで大人が練習していて。主催していたのは佐野接骨院の院長先生。俺の柔道の師匠といえばその佐野(一正)先生になるな。

故木村政彦さん(1963年)
故木村政彦さん(1963年)

 あとは当時、山梨県の柔道連盟と拓殖大学の仲が良くてね。当時の拓大の柔道部監督はあの木村政彦先生(※1)だった。たまに合宿に来て、その時には俺も練習に参加させてもらっていた。

 木村先生とも打ち込みの相手をさせてもらったんだ。体は俺の方がデカかったけど、とにかくゴツかった。「木村の前に木村なし。木村の後に木村なし」って言うけど、まさにそんな人だった。技というより「パワー柔道」だった。メチャクチャ強かったと思うよ。なんとかグレイシーじゃ勝てないよ(笑い)。

 人気漫画「空手バカ一代」に出ていたあの木村先生だから、不思議な感じがしたよ。先生の「鬼の柔道」っていう本も読んだし、影響は受けてるよ。何より努力の人じゃん。「普通の人より強くなるため、2倍くらいなら、その辺にいるから3倍練習していた」って。努力したか? うん。そうだな。俺は1・2倍くらいかな(笑い)。

 それで富士河口湖高を卒業後は、佐野先生の影響で柔道整復師を目指したんだけど…。

※1「鬼の木村」との異名を持つ柔道家。講道館7段。54年2月、日本初の本格的なプロレス興行で力道山と組んでシャープ兄弟と対戦。93年没。

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