【プロレス蔵出し写真館】1984年(昭和59年)ロサンゼルス五輪レスリング日本代表という、鳴り物入りでプロレス入りしたのは馳浩だ。85年8月、母校の専修大でOBの長州力、谷津嘉章も同席してプロレス転向会見を行い、ジャパンプロレスに入団した。
 
 翌86年に海外遠征が決まり、2月に先輩レスラーの新倉史祐とともにカリブ海に浮かぶ小島プエルトリコへ出発。

 デビュー戦が取材できればという願望を抱いて、首都サンファンでレスラーの常宿だった「タナマホテル」に宿泊していた2人をアポなし訪問したのは2月28日のこと。

「実は新倉さんとのタッグでテレビマッチでデビューしちゃったんですよ」。馳のひと言に、脱力したのを覚えている。

「日本を出発して20時間かけてプエルトリコに着いたと思ったら、サンファン郊外のスラム街っぽい場所でテレビマッチ4試合(馳とのタッグ)ですよ。疲れました」(新倉)。

 28日、馳はカグアス・シティーアリーナでミグエル・ペレス・ジュニアと対戦。馳はハチマキを巻き、青いハッピ姿、赤いパンタロンにアマレス用のリングシューズでリングイン。空手をイメージさせる手刀を叩き込み、ローキックから倒れたペレスにサソリ固め(写真)。最後はサイドスープレックスを決めフォール勝ちした。

 東スポ紙面には「馳プエルトリコで衝撃デビュー」の見出しが踊った。テレビマッチはデビュー戦とはいえないという判断。正確にはシングルデビュー戦と言った方がいいだろう。

 この後、馳と新倉はカナダ・カルガリーへ渡りマスクをかぶりベトコン・エクスプレスとして活躍。87年に長州が新日本プロレスにUターンしたことにより、この年の4月1日、馳は遠征先のカルガリーから帰国した。

 国内デビュー戦は、この年暮れ12月27日に行われた両国大会だった。小林邦昭のIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦し、初公開のノーザンライトスープレックスで王座を奪取した。

 さて、国内デビューする前の馳は、いまだにオールドファンの記憶に残る事件(?)を引き起こしている。5月11日に収録されたテレビ朝日系「ギブUPまで待てない!! ワールドプロレスリング」にゲスト出演。

テレビ収録で不機嫌そうな馳(87年5月、六本木のテレビ朝日)
テレビ収録で不機嫌そうな馳(87年5月、六本木のテレビ朝日)

 MCの山田邦子が流血戦の試合映像(4月27日、両国で行われたアントニオ猪木VSマサ斎藤戦)を見て、「血なんかはすぐに止まるものなんですか?」と質問。馳は「つまんない話聞くなよ。止まるわけないだろ!」と激怒。バラエティー色を打ち出していた同番組は、当時のファンには受け入れられておらず、このやり取りもファンは大方、馳に味方した。

試合映像で流された猪木VS斎藤戦。猪木を止めているのは馳(87年4月、両国)
試合映像で流された猪木VS斎藤戦。猪木を止めているのは馳(87年4月、両国)

 ところで、現在石川県知事の馳は元旦のプロレスリング・ノア日本武道館大会に〝X〟としてサプライズで登場。現職の知事で初めてプロレスに参戦し、石川県民は喧々諤々だ。馳の後ろ盾として知られる森喜朗元首相も苦言を呈したようだ。

 今も付き合いがあり盟友とも言える新倉は、「2日に馳から新年あいさつのLINEがきて…。俺が『(試合)やったの? 体じゅう痛いだろ』って返したら、試合写真を何枚も送ってきましたよ。その後のやり取りで北國新聞と、もう一紙別の地元紙かな? 記事の写真を貼りつけてきました。よっぽどうれしかったんだろうね。死ぬまでプロレスラーですって書いてました。ワイドショーを見ても賛否が真っ二つだよね。馳には県政も大事に、しっかりやってもらいたいね」。そうエールを送った(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る