10月1日に亡くなった“燃える闘魂”ことアントニオ猪木さん(享年79)は、長い現役生活の間で数多くのベルトを手中にした。先週は“ニューヨークの帝王”ボブ・バックランドからWWF(現WWE)ヘビー級王座を初奪取した試合を取り上げたが、新日本プロレスの看板王座だったNWFヘビー級、IWGPヘビー級など獲得した栄冠は数えきれない。
しかも日本人としては初めて意外な王座も獲得している。メキシコのUWA世界ヘビー級王座だ。UWAは1975年1月に旗揚げした新興団体でLLIが運営。最古団体のCMLLに対抗すべく、77年8月には“鉄人”ルー・テーズを初代王者に認定した。カネックを看板選手に育てるために、創設当時は世界のビッグネームを招へいしてカネックとの王座戦を多く組んでいたのだ。
78年8月にはカネックが第2代王者となり、80年1月には“狂虎”タイガー・ジェット・シンが第3代王者となる。そして当時、新日本プロレスでシンと抗争中だった猪木とのUWA世界王座戦が80年4月13日、メキシコシティーで初めて実現する。猪木が戴冠すればベルトはさらに「ハクがつく」と団体が期待していたのは明白だった。
「アントニオ猪木が狂虎T・J・シンを逆転KO。堂々とUWA世界ヘビー級王座獲得に成功した。13日(日本時間14日)エル・トレオ・スタジアムに2万3000人の大観衆を集めて行われた王者・シンと挑戦者・猪木のUWA世界ヘビー級戦は、猪木がテーズ、カネック、シンに続いて第4代王者となりNWF王座と合わせて2冠王となった。1本目はシンが首4の字からそのまま体を反転させたからたまらない。猪木はそのままエビ地獄に入って3カウントを奪われた。2本目は猪木がアリキック連発からガッチリと卍固めを決める。3本目、猪木は空手チョップ2発でシンを場外へ。しかし勝利のポーズを決める猪木の背後から、角材でガツーン!
猪木はダウンして、レフェリーは即座に反則負けを宣告した。勝った猪木は怒りのナックルパンチから必殺の腕折りアームブリーカー。口から泡を吹くシン。セコンドに担がれ退場し、右腕のスジが伸びきり3週間の重傷であることが判明した。猪木は『メキシコは空気が薄くて辛い。シンのことだからすぐ挑戦してくるだろうが、もうメキシコではやらんぞ』と語った」(抜粋)
試合前の13日には空港に到着した猪木をシンが襲撃する「メキシコ版新宿伊勢丹前事件」が起きるちょっとやり過ぎな波乱もあったが、反則でも王座が移動するルールは猪木に幸いした。
両雄は同年7月17日、蔵前国技館で再戦を行い、猪木がバックドロップで完勝。しかし2度目の防衛戦となった10月24日、沖縄ではシンのスパナ攻撃で猪木が逆上。シンの腕をロープ留めの金具に押し当てて絞り上げる伝説の74年6月大阪の“腕折り殺法”で反撃。レフェリーの制止を二度、振り切って殴打。今度は猪木が無念の反則負けで王座転落となった。
81年2月6日、札幌で4度目の対戦が行われるも、再度エキサイトした猪木が反則負け。シンは同年2月15日、メキシコでカネックに敗れて王座から転落。結局、猪木とシンのUWA抗争はわずか4試合、10か月間で終わっただけに、記憶にとどめているファンは少ないかもしれない。
しかし82年7月には海外遠征中だった長州力が、カネックを破り王座を奪取。9月に奪還されるも初の世界王座戴冠劇で自信がついたのか、長髪にイメチェンして10月に堂々と凱旋帰国を果たす。そして10月8日後楽園では藤波辰巳(辰爾)に対するいわゆる「かませ犬発言」を放ち、一大抗争へと発展。長州は一気に時代の寵児となる。猪木のUWA世界王座初戴冠は、その後の壮大なドラマへの序曲だったのかもしれない。 (敬称略)














