世界最大のプロレス団体WWEでは現在、WWE&ユニバーサル王座を保持する2冠王ローマン・レインズがトップに君臨する。10月1日に亡くなった“燃える闘魂”アントニオ猪木さん(享年79)は、1979年に日本人として初めてWWF(現WWE)ヘビー級王座奪取の快挙を達成した選手だった。その偉業が“幻”に終わったまさかの展開については後述したい。
当時の王者は“ニューヨークの帝王”と呼ばれた正統派のボブ・バックランド。78年6月1日、日本武道館のWWWF(当時)、NWFヘビー級ダブル王座戦の初対決は、1本目に猪木が40分8秒、場外でバックドロップを決めてリングアウト勝ち。しかし2本目は61分時間切れ引き分け。1―0で猪木が勝ったが、当時のルールで王座移動はなかった。
同年7月27日、日本武道館の再戦も猪木が卍固め、バックランドがアトミックドロップで1―1となるも、またしても61分引き分けで決着はつかず。そして4度目の挑戦となった79年11月30日、徳島市立体育館。猪木は90分1本勝負の王座戦に出陣した。
「過去3度バックランドの牙城に挑みながらルールに泣いた猪木。90分という長丁場を意識してか慎重なスタートだ。15分過ぎには張り手の打ち合い。猪木はキーロックを仕掛けるが、バックランドは肩より高く猪木をリフトアップ。恐るべき怪力だ。その後は猪木がロープ越しのブレーンバスター。ダメージを受けながらバックランドはバックドロップからロープに飛んでジャンピングボディーアタック。決まれば終わりだ。しかし猪木は両ヒザをボディーに突き刺す。その後はコブラツイスト、サイドスープレックスの応酬。ブレーンバスターをかわした猪木はガッチリ卍固め。王者はロープに逃れるが、その瞬間、シンがリングサイドに乱入。気を取られた猪木にバックランドはアトミックドロップ。カウント3寸前で猪木はハネ返すが、バックランドは決まったと勘違いし、すかさず猪木がバックドロップ。カウント3。28分16秒、猪木は悲願の2冠王となった」(抜粋)
狂虎シンの乱入という水を差す残念なハプニングもあり、試合後も大混乱に陥ったが黄金のベルトが猪木の手に渡ったのは事実だ。しかし12月6日、蔵前国技館の初防衛戦では26分を超える熱闘の後にシン、上田馬之助らがリングサイドに乱入。気が散った猪木のスキをついてバックランドは高々と抱え上げ、ロープに股間を打ちつけて27分19秒、3カウントを奪った。
立て続けに名勝負をブチ壊された猪木だが、WWF会長新間寿氏が「ノーコンテスト、没収試合」を宣言。猪木は王座を返上し再戦を要求した。本紙は「WWF代表マクマホン氏も当然黙っていないだろう。王座を返上して再戦を要求した猪木は潔いが、今後は日米間に深い溝を呼ぶのではないか」と分析している。
結局、バックランドは同年12月に米国でボビー・ダンカンとの決定戦を制して王者に返り咲く。両雄は80年4月16日、米フロリダで再戦するも猪木が21分24秒、反則負け。そして同年8月22日、品川で7度目の王座戦を戦うが、猪木が20分31秒、リングアウト勝ちを収めるも、ルールにより王座の移動はなかった。これが両雄にとって最後のWWF戦となった。
シンの乱入など日本側の不手際も否定できないが、後にWWFの不可解な裁定により、猪木の王座奪取は公式記録とはならなかった。それでも当時の名王者バックランドから3カウントを奪ってベルトを巻いたという厳然とした事実は覆らない。日本のファンは「猪木はWWF王者だった」と胸を張っていいだろう。
2010年に猪木は日本人として初めてWWE殿堂(ホール・オブ・フェーム)入りを果たし、最大級の歓迎を受けた。亡くなった際も「正真正銘の伝説」と改めて偉業をたたえる追悼文が寄せられた。WWEは明らかに猪木を“不世出のレスラー”として認めていた。乱入劇やバックランドが究極のベビーフェースで肌が合わなかったせいか、猪木は自ら選んだ名勝負にバックランド戦を選ばなかった。しかし、まぎれもなく両雄の戦いは70年代後半から80年代に日本中を興奮させた名勝負だった。
(敬称略)












