10月1日に亡くなった“燃える闘魂”アントニオ猪木さん(享年79)は、デビューから4年目、1964年3月から66年4月まで、初の米国遠征で修行を重ねた。豊登とハワイに渡ると、その後は単身「トーキョー・トム」「リトル・トーキョー・ジョー」などのリングネームで単身米国を転戦。NWAのセントラルステーツ、WWAロサンゼルス、サンフランシスコの各地区でパット・オコーナー、ディック・ザ・ブルーザー、ザ・デストロイヤーら強豪と対戦し、メキメキ実力を上げていった。

 当時の猪木はまさに“若獅子”といったりりしい風貌と俊敏なファイトスタイルで人気を集めた。64年、当時“無法地帯”と呼ばれたテキサス地区に進出。65年10月にはデューク・ケオムカと組んでフリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス組を撃破し、テキサス地区AWAタッグ王座を獲得(地区転戦のため返上)などの快挙も果たした。

 しかし遠征中、一番の収穫は66年1月1日にテネシー州ナッシュビルで後のNWA世界ジュニアヘビー級王者ヒロ・マツダと組んで、NWA世界タッグ王座を奪った試合だろう。王者組はマスクマンコンビのザ・ミステリアス・メディックス1号、2号。猪木は当時22歳。本紙は1面で猪木の快挙を報じている。

『中西部を暴れまくっていた猪木とヒロ・マツダの日本人コンビは1月1日夜(日本時間2日)は、当地のフェアグラウンド・コロシアムで“死の医者”ザ・ミステリアス・メディックスの保持するNWA認定世界タッグ選手権に挑戦。2―1でこれを破り、見事タイトルを獲得した。1本目はメディックスが速攻で猪木を奇襲。2人がかりのニードロップでKO。20秒で先制のフォールを奪った。しかし2本目は奮起した猪木が1号を空手チョップで連打、アームクローからネックブリーカーで一気にタイとした。決勝の3本目、マツダが2号に空手チョップとタックルの連打の集中砲火を見せてダイビングボディープレスでKO。ついに世界の王座を手にした。猪木は「まだ実感がない。諦めていただけにうれしい。テキサスでAWAのタッグを取ったのに続いて2度目だが今回はマツダさんとのコンビだけにうれしい。こうなったらテネシーでまた戦わなければならないだろうが、絶対に防衛する」と語った』(抜粋)

 本紙は解説欄で「日本にまた1人世界チャンピオンが生まれた。馬場のインターナショナル王座、豊登のWWA世界ヘビー級王座、そしてマツダと猪木のNWA認定世界タッグ王座と並べるとまさに豪華。マツダ、猪木がタッグ世界選手権を取ったのは、むしろ遅きに失した感がある。日本プロレスの新しい黄金時代の兆しがはっきりと感じとれる」と記している。馬場、豊登がトップを張っていたものの、会社側の猪木に対する期待は大きかった。

 結局、猪木が2月にロサンゼルス地区に新たな戦場を求めたため、マツダとのコンビは解消となった。猪木は3月に2年間の米国修行を終え、帰国の途に就くのだが、ハワイで豊登に説得されて日本プロレスを退団。東京プロレス旗揚げに参戦することになり、マット界に大騒動を巻き起こす。

 東京プロレスは翌年にアッサリ倒産するのだが、旗揚げ戦(66年10月12日、蔵前国技館)における猪木と“妖鬼”ジョニー・バレンタインの一騎打ちは後世にまで語り継がれる名勝負となった。猪木にとっては2年間の米国修行の“集大成”だったに違いない。
 (敬称略)