【石毛博史コラム 火消しは任せろ(16)】近鉄2年目の1998年は二軍生活が増え、8試合しか登板できなかった。リリーフへの迷いもあり、メンタル的にも苦難の時期でした。そんなころ、3年目くらいにゴルフのジャンボ尾崎さんを紹介され、オフの自主トレをさせてもらうことになったんです。千葉にある自宅のトレーニング施設でゴルフの練習生や他球団の選手、ラグビー選手やレーサーと一緒に1~2週間、滞在させてもらいました。ジャンボさんも元プロ野球選手だったこともあってティー打撃の場所もあるし、グラウンドでノックもできる。僕らがアプローチの練習したり、ゴルフの人たちがノックをしたり(笑い)。すごい楽しかった。ウエート場もあるし、広いんですよ。駐屯地の近くなんで空から落下傘部隊が降りるのを見たり…。

 ジャンボさんは巨人時代から僕を知ってくれていたし、近鉄で成績が上がらない僕にいろんなことを話してくれた。「今のお前は野球を楽しんでない。好きでやっているんじゃないのか。お客さんは苦しんでいるお前を見たいんじゃない。楽しく、躍動している姿を見たいんじゃないのか。それは勝っても負けても関係ないだろ」って。ハッと思った。見透かされていました。そういうのを含めていろんなことを勉強させてもらった。

 確かに一軍で初めて結果を出した92年ごろは毎日投げるのが楽しかったし、打たれる気もしなかった。その感覚を取り戻したいな、とは思っていたけど、結果にこだわりすぎていた。トレードで移籍したので結果を残さなきゃいけない。欲しいと言って獲得してくれた佐々木恭介監督にも恩返しができていない。チームにも家族にも…。リリーフへの迷いも残っていたし、野球を楽しめてなかったんです。そんな気持ちを見透かされて悔しかったし、感謝でしたね。

 ある日、驚いたのはグラウンドにマウンドをつくってくれてたんです。プレートもついてて「石毛のためにつくったよ」って。すごくうれしかった。巨人時代からオフはゆっくり休んでキャンプもスロースターターだったんですが、ジャンボさんのマウンドでピッチングができるようになり、2月1日からバンバン投げれるようになった。それもジャンボさんのおかげです。それくらい僕のことを思ってくれて、もう1回輝いてほしいと考えてくれていた。野球以外での大恩人ですね

 99年は27試合にリリーフ登板し、先発は1試合。一軍に呼ばれているということは状態がいいわけだし、与えられた場所を当たり前にこなすのがプロだ、と思うようになりました。それが同点の場面だろうが、敗戦処理だろうが、石毛を指名された時に石毛の仕事をしよう、と…

 2000年からは梨田昌孝さんが二軍監督から一軍監督になられた。そして近鉄は01年に球史に残るミラクルを起こすことになります。