“格闘王”こと前田日明氏の本紙連載「前田日明」は大好評のうちに終了した。連載中の10月1日には師匠の“燃える闘魂”アントニオ猪木氏が心不全のため死去。前田氏は「猪木さんがいなかったら、前田日明もタイガーマスクも、リングスも修斗も総合格闘技もK―1もPRIDEも何もなかったよ。全ての始まりですよ。本当にお疲れさまでした、だよね。それしかないですよ」と深い哀悼の意を込め、師匠への特別な思いを激白した。
また連載では1986年2月両国国技館大会でのエピソードを披露。当時、UWF軍団として参戦していた際、藤原喜明が猪木氏に敗れた後「アゴを思いっきり蹴ってやろうと思ってさ。思いっきり左ハイを蹴った。そうしたら猪木さん、その瞬間にキックの軌道を察し、ジャンプして首で蹴りを受けたんだよ。あれはすごかったね…。自分で見てもほれぼれとする、生涯ナンバーワンの左ハイキックですよ。あれを首で受けた猪木さんは天才としか言いようがない」と師匠の偉大さを語っている。
前田氏が新日本プロレスを離脱する以前の1983年5月27日、高松市民文化センターで最初で最後のシングル戦が実現している。舞台は第1回IWGP決勝リーグ戦だった。優勝決定戦(6月2日、蔵前国技館)で猪木氏がハルク・ホーガンのアックスボンバーを受けて舌を出し失神。まさかの敗戦を喫して病院送りにされた伝説のリーグ戦である。1982年2月から欧州遠征に出ていた前田氏(当時は明)はこの年の4月に凱旋帰国しており、欧州代表として参加。次代を担うエース候補としてファンから大きな期待と注目を集めた。本紙はこの貴重な一戦の詳細を報じている。
『「胸を借りるというよりも勝ちに行く。スープレックスの6発は放ってみせる」。前田は試合前、師匠・猪木に闘志をムキ出しにした。11分を経過した終盤、猪木をフルネルソンに捕らえるや、何と豪快な隠し技、ドラゴンスープレックスを放った。脳天からキャンバスに沈んだ猪木。その直前にはジャーマンスープレックスも食らっている。前田が勝った。超満員4300人の観衆は今、起ころうとしている大番狂わせに胸をときめかせている。俺は勝つ。前田もそう信じ込んでいた。だが、猪木は信じられない力、それこそ神がかり的な底力でこれをハネ返した。間髪を入れずに猪木の右足が宙を舞う。延髄斬りだ。前田の後頭部が砕けた。恐ろしき猪木の闘魂。「あれで一度に自信をなくしてしまった」。前田の証言がそのショックを物語る。猪木は往復ビンタ、バックドロップを決め「さあ、来い!」と胸を出した。前田は予告通りのスープレックス、至近距離からのドロップキック、逆十字と攻め立てた。猪木にはまだ余裕がある。前田がスープレックスを狙うと巧みにかわし卍固め。芸術的なテクニックだ。前田はフライングニールキック、パイルドライバーと奇跡の大番狂わせへ手を休めない。90%の大ピンチは前田への“檄”だったのだろう。最後は12分57秒、一瞬のスキをついた延髄斬り一発で体固め。前田が猪木戦で得たもの。それは早い機会に前田が何かを起こせるという手ごたえであっただろう』(抜粋)
しかし、前田氏は翌年2月に新日本を離脱して第1次UFW旗揚げへ向かう。85年12月にはUターン参戦を果たして猪木氏とのシングル戦は何度も何度も期待されたが、結局は実現することはなかった。その後、前田氏は長州力の顔面を蹴った一件で88年2月に解雇され、第2次UWF旗揚げへ動く。
その後は違う道を歩み二度と交わることはなかったものの、付け人まで務めた前田氏の猪木氏に対する愛憎半ばする特別な尊敬の念は消えることはなく“燃える闘魂”と“格闘王”の師弟の絆は永遠に揺らぐことはなかった。そしてそれは2人以外の誰にも分からないものだったに違いない。 (敬称略)













