邪道・大仁田厚(64)にとって、最後まで電流爆破マッチでの対戦がかなわなかった大物が、1日に心不全で死去したアントニオ猪木さん(享年79)だ。

 初遭遇は全日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)の付け人を務めていた時だ。キャピタル東急ホテルのロビーで優雅にコーヒータイムを過ごす馬場さんの前に〝招かざる客〟が現れた。

「ぱっと見たら猪木さんが入ってきて。うわーと思ったら、つかつかと馬場さんの前に来たんだよ。そうしたら『馬場さん、お疲れさまです』ってあいさつされた」

 当時、新日本プロレスの猪木さんはリング上で馬場をさかんに挑発していた。大仁田にもそんな猪木さんの姿しか印象になく、驚きを隠せなかったという。

「プロレスラーはリングの上では相手を挑発したらするけど、リングの下では紳士なんだなって感じた。猪木さんはパフォーマンスの上で馬場さんをケチョンケチョにしてたけど、先輩、後輩というものを重んじる人だなと思いましたよ」と振り返る。

 また「心残りは馬場さんとも電流爆破ができなかったけど、猪木さんとも80%可能性があったのにダメになってしまった電流爆破が心残りですね」と語る。

 一度だけ機運が高まったのが1994年のことだ。この年の正月、民放のバラエティー番組内で猪木と大仁田が共演を果たした。多摩川河川敷をランニング中の猪木が大仁田と出くわすというものだった。

 これを機に新日本と大仁田率いるFMWの本格的な交渉がスタート。もちろんFMW側の提案は猪木対大仁田の電流爆破だ。

 猪木さんのギャラは5000万円とされたが、当時、FMWのスポンサーだったダイエーグループが資金を出すことを約束。ダイエーの条件は試合開始は大みそかの午後11時59分で、会場は福岡ドーム(現福岡PayPayドーム)。まさに年越しプロレスで世紀の一戦は準備が進んだ。

 しかも大みそか決戦後、翌年1月4日の新日本東京ドーム大会で再戦の舞台が用意されるという条件だった。だが、猪木さんサイドは電流爆破については難色を示していたという。そうこうしているうちに交渉は決裂。結局、夢の対決は実現できなかった。

「実現しなかったからよかったのかもね。ただ、もし実現していたら、今の俺はいなかったかも」

 邪道VS闘魂――果たせなかった運命の邂逅は、永遠にプロレスファンの夢であり続ける。