【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(3)】どの高校に進学するかで悩んでいた中学3年の夏、予期せぬ場所で、予期せぬ人から「プロ」を意識させられた僕は、舞い上がるというよりキツネにつままれたような心境でした。所沢商の高鍋尚典監督にピッチングを見てもらうという話だったのが、中学の担任に連れていかれたのは西武ライオンズの室内練習場。しかも、球団管理部長の肩書で実質的な西武のゼネラルマネジャーだった根本陸夫さんまで同席していたのだから驚くのも当然です。

 幸いなことに、僕は所沢商を経て1991年のドラフト3位で西武に入団できました。しかし、小学生や中学生の段階で「将来はプロに」と高評価を受けながら、ケガや様々な事情から夢を果たせなかった人も数多くいます。そんな中で僕がプロの世界までたどり着けたのは、文字通り“ケガの功名”でした。

 あれは中学2年のときです。もっと高いレベルで野球をやりたいという欲が出てきて、硬式球でプレーする新座シニアに入りました。ただ、ここで少し回り道をしてしまいます。学校の部活と違って活動が土日と祝祭日しかないため、かえって時間を持て余すことになってしまったのです。仲間の中には、そり込みを入れたり、たばこに手を出す者がいたり…。そんなときに「このままでは熊澤も」と心配して“正しい道”に引っ張ってくださったのが、かねてお世話になっていた保谷にある川崎接骨院の川崎洋三先生でした。

 背中の肉離れをした際に治療してもらったのが縁で気にかけていただくようになり、自身が社会人野球までプレーヤーを続けたノウハウを叩き込んでくれたのです。毎週末に翌週分の練習メニューを渡され、指示された通りにランニングやサーキットトレーニングを消化する。100メートルのダッシュを30本とか、内容はかなりハードでした。

 診察の合間を縫ってバッティングセンターに連れていってもらったり、キャッチボールの相手をしてくれたりと至れり尽くせり。めきめきと基礎体力や技術がついていくのが実感できて、どんどん野球にのめり込んでいきました。親に頼んでティー打撃用のネットを自宅の庭に設置してもらったのもこのころです。当時は真っ先に中学から下校して、野球の練習をするのが何よりの楽しみでした。

 2011年オフに西武を退団してから、僕は地元の埼玉で整骨院を営むかたわら、野球塾で子供たちに指導もしています。中学生時代にセカンドキャリアのことまで考えていたはずもありませんが、こうして同じような形で育ててもらった野球に恩返しができているのだから、人生とか運命というのは不思議なものです。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。