【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(2)】真剣に野球と向き合うようになったのは埼玉・新座中で野球部に入った1986年からでした。前回紹介したように、市内のライバル校にはのちにプロ野球入りする選手が僕以外に2人いて、切磋琢磨することで有名高校の監督や関係者からも注目されるようになりました。
小、中学校で音楽を教えていた母は高校野球、特に春夏の甲子園大会が大好きで、いつしか僕も強豪校で聖地を目指したいと思うようになっていたのです。小学校高学年になって、桑田真澄さんと清原和博さんのKKコンビ擁するPL学園の試合を夢中で見た影響も多分にあったと思います。
僕の希望は名門帝京高校と川島堅投手を擁して86、87年と2年連続で夏の甲子園に出場した東亜学園でした。軟式ながら既に140キロ近い速球を投げていた僕はそこそこ名の知れた存在で、のちに聞いた話では「授業料免除の特待生で」とのお誘いもあったそうです。
しかし結論から先に言うと、僕は県立高の所沢商に進学しました。2学年上に憧れの先輩がいたので選択肢の一つではありましたが、実は知らないうちに“レール”が敷かれていたのです。
驚きの展開が待ち受けていたのは、そろそろ真剣に進路を考えなければならない中3の夏休みのことでした。担任の先生から所沢商を3度甲子園に導いた高鍋尚典監督にピッチングを見てもらうと言われ、連れていかれたのは高校のグラウンドではなく、なぜか西武ライオンズの室内練習場。それだけでも中学生の僕は舞い上がってしまいました。しかも監督の隣にいた眼光鋭い初老のおじさんが、僕のピッチングを数球見ただけで「いいね。うちで獲るから、あとは任せたぞ」と言うのです。
僕がきょとんとしていると、高鍋監督が“謎のおじさん”について、こう言いました。「分かるだろ? 清原の当たりくじを引いた人だよ」
85年11月20日に東京・千代田区のホテルグランドパレスで行われたドラフト会議では、PL学園の清原さんに1位指名で南海、阪神、日本ハム、中日、近鉄、西武の6球団が競合しました。意中の球団だった巨人が清原さんではなく、桑田さんを一本釣りで1位指名して大騒ぎになったことは、プロ野球にあまり興味のなかった僕でも知っていました。
そんな今でも語り草になっている伝説のドラフトで、清原さんの交渉権を引き当てた人。そう、僕のピッチングを満足げに見守っていたのは西武の元監督で球団管理部長の根本陸夫さんでした。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












