【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(1)】 失敗にこそ成功のヒントがある――。中学時代にプロから注目され、1991年ドラフト3位で西武に入団した熊澤とおる氏は一軍出場がないまま7年で現役生活を終えたが、その後に松井稼頭央や栗山巧、浅村栄斗、秋山翔吾といった名だたる打者のサポートや指導に携わってきた。実績がものをいうプロ野球の世界で、才能あふれる若手に慕われたのはなぜなのか? 部下や後輩との距離の取り方に悩む中年サラリーマンにとっても参考になりそうだ。
読者の皆様、はじめまして。2011年まで西武の一軍打撃コーチ補佐をしていた熊澤と言います。現役時代は一軍出場がなかったので、僕の名前を聞いてすぐにピンときた人は、かなりコアなライオンズファンでしょう。
冒頭でも申し上げた通り、僕には現役時代の華やかなエピソードはありません。7年間の現役生活は試行錯誤の連続でした。しかし、だからこそ気づいたこと、気づけたことが多々あります。指導者となってから一番に考えていたのは「自分のような選手をつくってはいけない」ということでした。
プロの世界に飛び込んでくるような選手には、他人より秀でた才能があります。しかし、全員が正しい指導を受けてきたとは限りません。実際に教わっていないケースもあれば、類いまれな身体能力の高さから教わるまでもなく“できちゃっていた”選手もいます。プロに入ってから「そんなことも知らないのか」とドヤされることも珍しくありません。
なぜ、そんなことが起きてしまうのか? 一つには言葉で伝える難しさがあると思っています。例えば打撃指導において「ポイントを前にして打て」というフレーズをよく耳にします。しかし、その場合の「前」は人によって受け取り方が異なります。より投手に近い「前」なのか、それとも打席に立ってホームベースに正対している自分の「前」なのか。同じ言葉でも、聞く側の感覚の違いで何十センチもの誤差が出てしまうのです。
指導に関する細かい話は後述するとして、僕も高校時代までは、どちらかというと“できちゃっていた”選手でした。野球に初めて接したのは東京・清瀬市にある東星学園小学校4年生のとき。いわゆる学校のクラブ活動で市の大会に出ても1回戦で負けちゃうようなチームでしたが、球が速いという理由からピッチャーに指名されました。
本格的に野球に取り組んだのは新座中に進学して野球部に入ってから。1986年当時の新座市は他校もレベルが高く、四中にはのちに同じ所沢商に進み、ドラフト7位で広島入りする捕手の小畑幸司、六中には川口工を経て巨人にドラフト5位で入団する投手の三好正晴がいました。大会ともなると強豪校の監督や関係者が視察に訪れていたほどでモチベーションにもなっていました。そして僕は自分の知らないところで“プロの目”にも留まっていたのです。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












