【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(25)】就任2年目の1988年にチームをリーグ優勝に導いた星野監督だったが、89年(3位)、90年(4位)とV逸。91年は広島と激しい優勝争いを繰り広げたが残念ながら最後に息切れして2位となり、星野監督はこの年限りでユニホームを脱いだ。

 代わって92年から中日の新監督となったのが高木守道さんだった。ミスタードラゴンズは6年ぶりの現場復帰。俺は一軍打撃コーチ補佐となり、徳武ヘッド兼打撃コーチのサポートをすることになった。

 徳武さんとは最初のうちはうまくいっていたのだが、次第に関係は悪化していく。原因は大豊泰昭の指導を巡る意見の食い違いだ。88年ドラフト2位で中日に入団した大豊は1年目から14本塁打を記録するなど長打力が魅力の選手だった。だが、ホームランも多いが三振の数も多い。ボール球に手を出してしまうという悪癖があった。

 徳武さんは「大豊には右足を上げないで打たせろ」と俺に言ってきた。速い球に遅れたくないから何でもかんでも手を出してボール球も振ってしまう。右足を上げる打撃フォームだと始動が遅れてしまうから足を上げずに打った方がいいというわけだ。もちろん理屈にもかなっている。

 だが「そんなことしたら全部おかしくなっちゃいますよ」と俺は反対した。というのも大豊は“超”がつくほど頑固な性格の持ち主だったからだ。自分が信じたことにどこまでも真っすぐ突き進むタイプで、上から何かを押しつけようとすれば絶対に反発する。実際、大豊は星野監督時代も自分に対してあれこれと注文をつけてきた一枝ヘッドコーチともめていた。

 俺はそれがわかっていただけに「足を上げる上げないじゃなくて、長くボールを見て逆方向に打たした方がいいんじゃないですか」と提言した。しかし、徳武さんは納得しない。結局、俺から大豊に足を上げない打撃フォームへのモデルチェンジを勧めたのだが、案の定、聞く耳を持ってくれなかった。

 徳武さんの考えもわかるし、大豊の気持ちもわかる。あのときは板挟みになって大変だったよ。この件も含めて徳武さんとの関係が微妙になっていったことで、俺はシーズン途中に一軍から外れて二軍と三軍を見ることになった。

 大豊は足を上げない打撃フォームにするどころか、その年(92年)の秋季キャンプに臨時コーチとしてやってきた張本勲さんに勧められて一本足打法に挑戦。ゴルフの最中も、子供を抱いている時も一本足で立つなど愚直なまでの特訓を繰り返し、新しい打撃フォームを固めていった。

 93年には25本塁打を記録するとFAで巨人に移籍した落合博満さんに代わって94年のシーズンでは正一塁手となり、一本足打法で打ちまくって本塁打と打点の2冠王になった。

 94年は今中、山本昌のダブルエースと立浪、大豊、パウエルらを中心とした打撃陣がかみ合い、終盤に首位・巨人を猛追。ペナント最終戦となった10月8日の中日―巨人戦(ナゴヤ球場)で同率首位の両チームが優勝をかけて戦うことになる。伝説の「10・8決戦」だった。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。