【越智正典「ネット裏」】ことしのセンバツは3月31日、奈良の智弁学園の優勝(初優勝)で閉幕した。優勝監督小坂将商をずぅーと前から応援して来た、あの箕島が春夏連覇したときの三塁コーチ、現和歌山県湯浅町給食センター長、中本康幸は、今日は小坂は関係者への挨拶で大変だろう。ケータイもお祝いで鳴りどおしであろうと、おめでとうとだけメールを送った。夜9時。小坂から尊敬すべき、この郷里の先輩にメールが送られて来た。

 中本は「立派な監督になられたあ」と感激した。「“また、コツコツと頑張ります”という返信でした。この“コツコツ…”がホントの高校野球です」

 4月。高校も1年生の季節である。福島でいうと白河高はじめ県立高は4月8日が入学式だが、私は改めて、立派な先生監督だったあーと、大阪の北陽高の松岡英孝(1970年の第42回センバツの決勝で対箕島に延長12回、4対5で準優勝。甲子園大会出場春夏計8回、11勝8敗)を思い浮かべている。

 松岡は入学式が近づくと新入生の顔写真を受験願書からコピーして、ポケットアルバムを作り登下校の電車のなかでもアルバムを取り出し、顔と名前を必死の想いで覚えていた。これが彼の春であった…。

 入学式。授業が始まる。入部手続き。部活が始まる。1年坊主が校庭グラウンド(当時)に飛び出す。松岡は彼らを必ずフルネームで呼んだ。オーイ、そこの1年生…と呼ぶことは決してなかった。1年生選手はこれがうれしくて練習に励んだ。と言ってまだ上手ではない。練習を見に行くとキャッチボールの捕球音はポトポト…。松岡はしかし、彼らが成長して行くのをじっと待っていた。

 松岡(高知の城東高、のちの高知高、近大)は、1937年10月14日、高知の素封家に生まれた。祖先からの田畑を沢山持っていた。8歳のときに終戦。戦後の、あの苛酷な財産税と農地改革で田畑は持って行かれた。父栄次郎、母八重子は教員だったが母親は教員を辞め、残った田んぼを守るため泥んこになって働いた。彼は60年に教員になり北陽高に。月給は8500円。下宿代は7500円。毎日銭湯にも行けなかった。彼は母の仕送りに涙した。

 80年夏、大阪大会決勝で勝ち、甲子園出場を決め、テレビ局にインタビューされたとき、帽子を深々とかぶっていた。涙をかくすためだった。涙は母への感謝のトロフィーと言えた。

 彼が慈しんで来た北陽は甲子園で優勝出来なかったがトンボかけは日本一である。日が暮れ練習終了の校歌斉唱も日本一である。

 90年に勇退。今は高知に帰り、母親と同じように家を守っている。働く日は昔、1年生と一緒に食べた握りめしと麦茶を楽しんでいる。彼が甲子園出場を決めた日の大阪の新聞の見出しも忘れられない。

「お帰りなさい」

 =敬称略= (スポーツジャーナリスト)