【越智正典 ネット裏】1988年10月7日、星野仙一が烈々、中日を率いて優勝を決めたとき、昭和天皇の病重く、球団は一連の優勝行事の中止を決めていた。あとで優勝記念品もわけられなかった。

 しかし、勝ったのだからともかく顔合わせをしようと、球団は名古屋駅前の「キャッスルプラザホテル」に集まる選手用のバスを手配した。「おにいちゃん」こと仁村薫と弟仁村徹は、あとから行きます…と乗車しなかった。ナゴヤ球場前で直立不動。グラウンド整備の永田向平ら裏方さんがワゴン車に乗り発車すると、二人そろって一礼していた。

 私が弟徹選手を最初に見たのは79年夏、第61回大会の甲子園を目指す埼玉大会である。徹少年は上尾高校のエース。埼玉県営大宮球場のマウンドからアンダースローで鋭い球を繰り出していた。埼玉大会優勝投手になった。川越市南田島から上尾まで20キロを自転車で通っている。父親の実さんが喜んだ。甲子園出場が決まったからではない。「ご近所の方が『きょうも徹くんがあいさつをしてくれました』と知らせてくれるんです。これがうれしいんです。高校野球はありがたいです」

 東洋大学に進学。3年生の82年春、全13試合に登板。東洋大7季ぶりの完全優勝に力投。戦国東都を制した。最高殊勲選手(19票の満票)、最優秀投手(15票)、ベストナイン(17票)。投手3冠。6月27日から米国転戦で始まった日米大学野球選手権では2勝して敢闘賞。

 83年のドラフトが近づいた。スカウトから、いい投手です、気迫があります、いけます…と報告を受けていた、このときのドラの監督だった「オールスター男」山内一弘は、仁村徹を見に行って驚嘆した。打撃がすごい。非凡な才を見たのである。11月22日、中日は第19回ドラフトで仁村徹を2位指名したが、山内の熱望だった。1位は享栄高校の藤王康晴。地元選手だから仁村徹は実質“打者”で1位である。

 88年のドラの沖縄キャンプは沸きに沸いた。後半、MLBの名門ドジャースのベロビーチキャンプへ行くのだ。それまでドジャータウンへは巨人しか行ったことがない。星野監督付き、コーチ補佐の早川実(福岡電波高校、福岡工大、西濃運輸、投手)が外野手に地上スレスレの当たりを打ち込む。
「ワン オア エイト! 突っ込め!」。何のことかと思ったら、一か八か突っ込め!である。

 沖縄・石川球場の球場事務所に、星野仙一あての大きな樽で北海道から「いくら」が届く。マネジャー、実際は星野の参謀、のちに二軍監督福田功(奈良県郡山高校、中央大学、全日本捕手)が叫ぶ。

「オーイ、今夜のおかずはいけるぞー。ハウマッチだ!」。爆笑また爆笑。新しい絆が生まれ始めようとしていた春であった。

 仁村徹は二軍の具志川(うるま市)練習場の片隅にいた。右脚を痛め、オフに手術した。退院してきたが、歩くのがやっとだった。歩く姿は痛々しかった。ベロビーチへ行くメンバーには選ばれない。当然である。古人は、天は人に大きな使命を与えようとするときには、その人を苦しめると言ったそうだが、そんな教えなど思ってもみない。残る脚の痛みに歯を食いしばるだけだった。=敬称略=