【平成球界裏面史 近鉄編119】平成10年(1998年)の夏の甲子園準々決勝で横浜高とPL学園が延長17回の激戦を行った記憶は野球ファンの脳裏にとどまっていることだろう。さらに、この試合で輝きを放った選手が、近鉄最後のシーズンとなった平成16年(2004年)にブレークしたことも覚えているだろうか。その選手の名は大西宏明。PL学園から近大、近鉄、オリックス、横浜、ソフトバンクと渡り歩いた波乱の野球人生は書き記すに値すると判断する。
大西は昭和55年(80年)の4月28日生まれ。いわゆる松坂世代の一員だ。生まれは兵庫・尼崎で育ちは大阪・堺市。野球の名門・PL学園に進学しエースの上重聡(立大・日本テレビ、フリーアナウンサー)や主将・平石洋介(同志社大・トヨタ自動車・楽天)らとともにチームをけん引する存在だった。
平成10年(98年)のセンバツでは横浜高を相手に準決勝敗退。同年夏の甲子園では準々決勝で春にも対戦した松坂大輔にリベンジする機会が巡ってきた。この試合で大西は3安打、同点打を含む1打点とつめ跡を残した。その後は近大に進学し2年春に首位打者を獲得するなど頭角を現し平成14年(02年)ドラフト7位で近鉄に入団した。
1年目の平成15年(03年)は二軍スタート。大学経由でのドラフト7位という評価ではあったが、現場では「打撃フォームやルックスも含めて、見た目はイマイチなんやけど、野球に関しては実戦向きで面白い選手やな」と評価を受けていた。元々、俊足と堅実な守備はプロレベル。あとは打撃に課題が残ったが、鈴木貴久二軍打撃コーチからの熱血指導で徐々に力を蓄えていった。
大学時代は65試合、238打数65安打(打率2割7分3厘)で無本塁打だったが、プロ1年目のウエスタン・リーグで打率3割1分、7本塁打の成績。10月3日のロッテ戦(千葉マリン)では一軍初出場初スタメンも経験した。
平成16年(04年)、大西はプロ2年目の春を迎えていた。宮崎・日向で行われた春季キャンプでは二軍メンバーとしてメンバーに加わった。当時の近鉄は中堅・大村直之、右翼・礒部公一はほぼ固定。左翼にタフィ・ローズの後釜とした入った左打ちのラリー・バーンズ、右の外野手であった下山真二、両打で俊足、強肩の森谷昭仁らの牙城を崩せるかという状況だった。
そして、キャンプ中盤の紅白戦で大西が〝実戦向き〟であることを証明することになる。チームは紅白戦では意図的にポジションのかぶる若手を同打順、同ポジションに入れて競争心をあおる。そういう場面が宮崎・お倉ヶ浜にも用意された。そこで大西が結果を残すことになる。















