【球界平成裏面史特別編 松永氏を直撃(1)】「史上最高のスイッチヒッター」といえば、往年の阪急やブルーサンダー打線で中核を担った松永浩美氏(60)だろう。俊足巧打の名選手として名をはせたが、不器用な性格ゆえのトラブルもつきまとった。球団売却後、オリックスから阪神に移籍。虎フィーバーを巻き起こしたかと思えば、FA第1号選手としてわずか1年でダイエーに移籍した。「甲子園は幼稚園の砂場発言」「ゲームセット事件」「失踪騒動」など松永氏を巡る数々の“事件”の真相を本人が激白。第1回は1992年オフ、阪神・野田浩司との電撃トレードの舞台裏に迫った。
     
 平成4年(1992年)オフ、オリックスは阪神の次期エース候補だった野田と松永の交換トレードを発表した。松永放出の原因は、土井正三監督との“不仲説”だったとされる。

 ――土井監督との間に溝があったのか

 松永氏 土井さんは「俺は巨人を捨ててきた」なんて言っていたのに、ほぼ毎日、巨人の話ばかりでした。そんなこと言わなきゃいいのになあって思ってましたよ。「また巨人の話かよ」って言う選手はいました。私は何とも思っていなかったし、初めは普通に監督と話していたんです。共通の知り合いがいて食事をした時に「監督の好きにやられたらどうですか。私は監督の言うことを選手に伝えるだけですよ」なんて言っていい感じだったんですよ。ある日、その知り合いが神戸に試合を見に来た時、私が気を使って「今日の夜は監督と一緒ですか」と聞くと「いや、ないよ」と。だから私が送って行ったんです。それがまずかった。監督もその人を探していたらしくって…。そこからあいさつしてくれなくなりました(笑い)。

 ――それが不仲の原因?

 松永氏 それ以外ないですもん。それまで仲良かったし、いつもベンチでは横にいました。デカ(高橋智)にバントさせないというのも聞いていたし「将来、デカにクリーンアップを打たせたい。今は6、7番を打たせてバントもさせないから、その分、君にしわ寄せがくるけど、よろしくな」って。試合中も「あいつは使えるか」「大丈夫ですよ」とか、僕が「もうこの試合、負けているし、最後の私の打席はパンチ佐藤を代打で行かせますか」とか。青田昇さんから「土井を見てやってくれ」と電話をもらっていたし、いろんな人から土井さんをサポートしてあげてって頼まれてね。1年目は周りから「あの2人は、できてんじゃねえのか」と言われるくらい仲良くて、2年目から話さなくなっちゃいました。

 ――それが92年オフのトレードにつながる

 松永氏 新聞記者から石嶺(和彦)や私がトレード候補になっていると聞いたんです。「えっ?」と思った。記者を集めて「球団も球団だよな。いらないならいらないでいいけど、陰でこそこそするな。何年頑張ってきたと思ってるんだ」ってタンカを切ったんです。それででしょうね。ヤクルトと(トレードの)話があったというのは聞いたことがあって。あと11月に日米野球で東京ドームに行くと落合(博満)さんに「マツ、主役来たな」って。新聞に「長嶋巨人が松永を熱望」って出てたんです。でも巨人との話はなかったと思います。

 ――それが、まさかの阪神移籍に

 松永氏 ショックで家に帰ってないですよ。チームはブーマーがいなくなって足を使う野球をやりたいということだったし、自分がそうなるなんて、あり得ないと思っていた。契約更改の日が決まってなくて、ある日、突然、呼ばれて印鑑を持ってホテルに行ったら、上のほうの部屋に社長がいたんです。テーブルに何も置いていないし、なんかおかしい。こっちは契約と思っていたら社長が急に立って「阪神に行ってください」ですよ。「えっ、今なんて言いました?」って2回聞きましたよ。「監督は知ってるんですか?」と言うと「これから監督は説得します」と…。ん?って思った。誰とトレードとかは聞いていませんよ。

 ――踏ん切りは

 松永氏 相手が野田でも誰でも私の中では関係ない。踏ん切りはつけなきゃいけないと思った。

 ――オリックス球団に対して不信感は…

 松永氏 阪急って5年間は給料が上がらなかったんです。実績を作らないと3割を何回打っても我慢せえ、と。5年やって平均値を出し、6年目以降にその平均値を超えた分をアップさせるという査定なんです。逆に平均値を割っても6年目以降は下がらない。そういう契約を私はしてきたんです。それがオリックスになったらドーンと下がって「なんでだ」と言ったら「それは阪急さんのときでしょ」って。不信感というか、前の話は関係ないんやな、と…。

 ――寂しい思いも

 松永氏 過去の先輩を見ていると後輩に伝えているし、僕もそうしないといけないと思っていたし、オリックスはあれから三塁手が育っていないですよ。まさか自分がそういう形で出るとは思わなかったねえ。=続く=

 ☆まつなが・ひろみ 1960年9月27日生まれ。福岡県北九州市出身。78年に小倉工からドラフト外扱いで阪急に入団。練習生として用具係を務め、79年に支配下登録された。81年に一軍デビューし、スイッチヒッターとして活躍。92年オフに野田との交換トレードで阪神へ。93年オフにはダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。97年に退団し、メジャーを目指したが、かなわず引退した。盗塁王(85年)のほか、2度のサイクル安打、3試合連続先頭打者本塁打、5度のベストナイン、4度のゴールデン・グラブ賞に輝く。現在は鹿児島県を拠点に少年野球を指導。ユーチューブ「松永浩美チャンネル」「パパ永チャンネル」を開設している。