【藤田太陽「ライジング・サン」(6)】遊撃守備で強肩をひけらかす、という快感を覚えた中学3年の僕なのですが、相手校が強豪校の時などはアピールに必死でした。たくさん高校のスカウトの方々が見に来ますからね。

 なので、普段よりさらに深く守って見せ場をつくることにいそしんでいました。実際にその後、複数の高校からスカウトをしていただいたのですが、僕はあの肩で決めてもらったんだと、アピールは成功だったなと思っています。

 仙台育英、東北高、秋田経法大付、金足農業にそれぞれ推薦を出してもらいました。その何日か後に校内でケンカをしてしまって。理由は、その当時にお付き合いしていた彼女に、消しゴムを投げつけられた程度のちょっかいを出されて、もめ事になったレベルなのですが…。進学の支障にはならず幸いでした。

 ヤクルトの石川雅規が進学した秋田商も考えていましたが、僕にはスカウトは来てくれてなかったですね。条件として特待生とのお話をいただいたのは3校でした。その中で親は秋田経法大付、僕は仙台育英に気持ちが傾いていました。

 でも、もしけがをしてしまったらとか、僕の性格が判断を変えていきました。これは阪神を選ぶ時にもこういう気質が働いたと思うんです。実家は秋田で仙台だと親が試合を普段から見られないし、練習風景だって頻繁には見ることができない。それじゃあ、両親には楽しんでもらえないなと。じゃあ、何が一番いいだろうかと考えたんです。

 で、その当時、最も熱心に誘ってくれていたのが新屋高の鎌田監督だったんです。本当に熱意のある人で「君の手で甲子園に連れて行ってくれ。君のことが必要なんだ。君のために秋田県の中から、3年生になって甲子園を目指せるメンバーを血眼になって探し、スカウトしているから」と言われ心に響きました。他の選手にも同じこと、みんなに言っていたかもしれませんけどね(笑い)。

 強豪校のスカウトは「藤田くんさえ良ければ来てくれればいいですよ」というスタンス。もちろん環境も整っているし、素晴らしいなと思いました。

 でも、新屋高は「ウチのグラウンドは石ころだらけだけど、先生がちゃんと整備して何とか君たちに野球をやらせてやるから」という鎌田先生のスタイルでした。僕にとっては、こっちの方が信用できる先生だなというふうに感じました。

 違う判断をすれば未来は変わったかもしれません。でも、それはもう分からない話です。僕は新屋高の鎌田監督の下で野球をやりたいと思いました。本当に普通の公立高校でした。吹奏楽部が強くて全国大会にも出ているくらい。野球では無名です。学力も普通で5教科500点満点で300点弱取れれば合格のレベルでした。

 当時は公立高校でも運動部を優遇して獲れるシステムがあったそうで、僕は私立の強豪校ではなく新屋高を選んで進学しました。

 強豪校の環境やブランドより、誘ってくれた監督の人柄で進路を選んだ。それは、阪神に入団した時とどこか似ているような気がします。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。