休校期間中の高校は…のびのび野球「横浜隼人」の場合

2020年06月20日 11時00分

キビキビとした動作でグラウンド整備する横浜隼人高校の生徒たち

【ネット裏 越智正典】「安倍首相が新型コロナウイルス対策で全国の小、中、高校の休校を決められたのは2月27日でした」。横浜市瀬谷区横浜隼人高校の「日本史」と「政治経済」の先生、野球部コーチ、押部孝哉に4月に電話をかけて話をした。キビキビした声。走って来たようだった。

 横浜隼人高校は新幹線下り列車が新横浜駅を出るとすぐの丘の上。グラウンドのライトのうしろの丹沢の山々の夕焼けがキレイであった。

 選手は練習中でも一塁ベンチでお弁当を食べてよかった。“体重が1キロ増えると球が1キロ速くなるんだってさ”。のびのびとしたチームである。

「休校になったときは、ちょうど3学期の期末試験とぶつかりました。試験を実施出来ませんでしたので生徒の成績をどう判定するか、生徒を傷つけないようにして、公正な基準づくりの会議がずうーっと続きました。3月に入っても続きました…」

「そのさなかでしたが、2月29日、水谷哲也監督と相談して練習メニューを作って映像にして部員に送りました。部員から毎日体重などの報告が送られて来ました。このときは休校が3週間でしたので本を3冊読んで感想文を書きなさい…という指導もしました」

 押部孝哉は昭和53年、東京の下町、荒川区南千住で生まれ育った。東京の下町は人情の町だが地域社会のつながりが立派な町である。

「こどものとき、いじめっこをしていたら町のオジサンにひっぱたかれました。弱いものいじめをしてはいけません! 忘れられません。ありがたいオジサンです」

 国士舘高校に進み、センバツに出場。投手兼三塁コーチ。従兄弟のすすめで進学した青山学院大は、東都他校が部員100人余なのに比べ40人。押部はなんでもやった。

 投、捕、内、外野、球ひろい、水まき、そしてマネジャー。私が熱血、ひたむきな彼に出会ったのはこのときである。いや彼に教えられた。押部は東都随一の名マネジャーであった。

 試合当日、各校マネジャーは神宮球場の正面玄関を入ってすぐの連盟事務所に早朝から詰める。来賓にお茶、メンバー表の用意、審判の靴みがき。ひるに食券を1枚貰える。廊下のそばの店で一杯食べられる。おなかが空いているハズなのに彼は食べなかった。2階席への階段を駆け上がった。ホンノ10分、長くても12分、13分、ナマで試合を見ていた。野球が大好きなのだ。痛烈である。公認のひる休みでもそれ以上に見ると詰めている他校マネジャーに迷惑がかかると、階段を駆け下りた。

 横浜隼人の野球部は6月1日に3か月ぶりにミーティングを開いたが、押部は4月にはこう話していた。「いまですか。教職員は時差出勤をしています。昨日は4時半に帰らせて頂きました」。頂きました…という。謙虚である。

 そして「おひるですか。生徒食堂の担当職員がご苦労をされています。休校になるちょっと前に食材を沢山仕込んだばかりだったんです。もったいなくて、無駄には出来ません。毎日、おひるを作ってもらっています。頂いています」。押部孝哉は、相変わらず、思いやり先生でもある。=敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)