【昭和~平成スター列伝】夏休みに入り、日本各地の観光名所はレジャー客でにぎわっている。中でも沖縄は8月だけでも毎年100万人以上が訪れる超人気スポットだ。沖縄は昔からプロレス人気が熱い土地で、地元プロレス団体も存在し、メジャー各団体もほぼ毎年、興行を行っていた。古くは日本プロレスの祖・力道山の時代には熱狂的な歓迎を受けていた。力道山時代は沖縄に4度(1957年に2回、62年、63年)の遠征が行われている。

ムースの攻撃に耐える力道山
ムースの攻撃に耐える力道山

 まだ本土復帰を果たす以前の時代で、海外遠征同様の大がかりなものだった。3度目の遠征となった62年11月は全6試合が行われ、合計で7万人近い大観衆を集めた。最終戦となった11月9日那覇市旭橋広場特設リングで力道山が“大鹿”ビッグ・ムースを相手にインターナショナルヘビー級王座12度目の防衛戦を行っている。

「力道山は前半グラウンドレスリングによる足攻め、腕攻めの激しい応酬は完全にムースの出足をおさえた。焦ったムースは殺人パンチの反則攻撃でセコンドの閃光男マハリックと組んだきたない作戦に出たが、これが墓穴を掘ることになった。力道山はこれまでセーブしていた空手チョップの猛攻で、ムースを場外で粉砕してしまった。力道山の勝因は体調のよさからくるフットワークのよさとそこから生まれるスピード。さらにロープを巧みに使い、狂った大鹿を場外に叩きつけたインサイドワークのよさだろう。大鹿は場外でうずくまったままカウントアウトとなった(10分42秒)。2本目、頭にきた大鹿はリングに躍り出ると殺人パンチを振り回して大暴れ。力道山も空手チョップですさまじい応酬。怪力のボディースラムで2度叩きつけると、ハンマー投げでロープに吹っ飛ばし、返るところを伝家の宝刀水平打ちから強引な体固めに決め(1分58秒)、インターナショナル選手権12度目の防衛はここになった」(抜粋)

 当日は屋外リング、しかも雨模様の悪天候だったが1万人以上の大観衆が「中止にしたら承知せん」との雰囲気に満ちていたという。力道山一行は試合を終えた午前3時25分羽田着の日航機で帰国した。

 力道山は「町をパレードしてホテルに入ったが、凄まじく熱狂的な歓迎には驚いた。沖縄の人がこんなにプロレスを心待ちにしてくれていたのかと思うと、涙が出そうになった。沖縄は昭和29年から30年のテレビの普及と同時に爆発的なプロレスブームが起きたような状況だ。テレビの普及率は那覇市内で4軒に1台、南部や北部の村ではだいたい8軒から10軒に1台。へんぴなところでは村の公民館の村有のテレビ1台だそうだ。それが火曜の夜にプロレスが中継されると黒山の人だかり、公民館のテレビには村中の人が集まるそうだ」と感激の胸中を表現している。力道山は翌63年も沖縄遠征を実現させ、6万人の観衆を動員する大成功を収めている。 (敬称略)