【武藤敬司の軌跡(6)】坂口征二さんと山本小鉄さんの面接で度肝を抜かれながらも入門テストに合格した俺は、1984年4月に新日本プロレスの合宿所に入った。蝶野正洋と橋本真也も同時期だった。同期はAKIRAとか船木誠勝がいた。当時の心境? やっぱり、プロレスという特殊な世界に入る緊張と恐怖心はあったよ。「どんな練習をするんだろう」とか「どんな先輩がいるんだろう」とか。

 練習はしんどかったよ。ヒンズースクワット1000回とか。変な話、そういう自重の練習は俺たち体のでけえやつが不利に決まってるじゃん。それにまだ練習中は水を飲んだらいけない時代でさ。(世田谷の)等々力不動の階段で競走させられて、負けたらずっと走らされたんだ。俺は足が速かったから負け残らなかったけど、帰りにお寺の手水舎で水を飲んだら寮長だった新倉史祐さんに怒られたよ。

 あまりにも練習が厳しいから、入って何日かで小鉄さんに「実家に帰ります」って言ったら止められてなあ…。実家が植木屋さんで子供のころから手伝ってたから、やっぱり、そっちを継ごうと思ったんだけど。もともと俺は、軽い気持ちだったというか。入門する時、実家にも「少し様子を見てくるよ」と言って出てきたくらいだったんだよ。

【武藤敬司連載#5】全部デケえんだよ…坂口征二さんとの面接で「ヤバい世界に来てしまった・・・

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【武藤敬司連載#5】全部デケえんだよ…坂口征二さんとの面接で「ヤバい世界に来てしまった」と後悔 | 東スポWEB

 ほかのやつらは全て懸けて、退路を断って来ていたからタフだった。ハングリー精神がなかったら生き残れなかったんじゃねえかな。だから“変わったやつ”しか残らないというか。俺だけ退路があった。それでも残れた理由? 今振り返ると「大事に育てられていた感」はあるよ。デビューして、すぐテレビとか出てるし、最初の米国遠征から戻った時も常に猪木さんの隣にいたり。あとは先輩方がいなくなったのもあると思う。

 俺が新日本に入門した直後、UWFとジャパンプロレスの件で選手の離脱(※1)が続いてね。うれしかったよ。うれしくてしょうがなかった。だって、会社がどうなろうと関係ない。自分のことが全てだったから。実際、先輩方がいなくなったら会社がすげえ優しくなったんだよ。なんだかんだ封建的な世界だから先輩がいなくなることはラッキーだよ。そういう意味でラッキーだったのはライガー、橋本、船木の後輩じゃなかったことだな。後輩だったら俺はすぐ辞めてるよ。なぜかって? この時代だから詳しくは言えないけど、3人揃うと悪さをするというか(苦笑い)。

 そしてデビュー前にはついにアントニオ猪木さんとも初めてお会いすることになるんだけど、俺たちはいきなりやらかしちまってさ…。

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※1 1984年6月に藤原喜明と高田延彦がUWFに移籍。木戸修も続き、同年9月には長州力ら11人が離脱してジャパンプロレスを旗揚げした