1979年3月に日本大学を卒業した後は足利工大の職員となり、80年モスクワ五輪に向けて歩み始めました。指導していた栃木・足利工大高のレスリング部には、後に1年に川田利明、2年に三沢光晴と後に全日本プロレス入りする2人がいました。
川田は中学時代に相撲をやっていて将来的に新日本プロレスに入りたくて入部したそうです。レスリングは決して強くなかったけど、負けん気が人一倍ありました。
三沢は中学時代に器械体操部で、ジャンボ鶴田さんに憧れてプロレスラーになるため、特待生で入ってきました。高2の時には「早くプロレスラーになりたい」と思って夜逃げし、六本木にあった全日本プロレスの事務所まで行ったこともありました。その時に鶴田さんから「高校卒業するまで待っててやる」と諭され、自分が彼を迎えに行きました。高3で国民体育大会のフリースタイル87キロ級で優勝しているので、レスリングの実力はあったと思います。
2人の性格は正反対でした。三沢は一つ大人びてて、都会っ子。川田は練習中も唇をかみながら「なにくそー!」という感じ。三沢の方がどちらかというと天才肌で、川田は努力家。高校時代からいいライバルだったと思います。
自分の練習は、日大や国士舘大での出稽古が中心で、春休みには三沢や川田を連れて行く時もありました。毎年、世界選手権にも出場する中で「ソ連(ソビエト連邦)の選手に勝てないのは、何が違うんだろう」と思いました。体力の差やメンタルの違いを検証したいと思い、足利工大の理事長に海外での武者修行を要望しました。
すると、理事長はすごく寛容な方で認めてくれて。学校側から1000万円を出してもらえることになったんです。79年秋に米国のオレゴン州立大学でトレーニングを始め、80年1月からソ連での武者修行が始まりました。最初はなかなか東欧の選手に勝てなかったけど、次第に互角に戦えるようになってきて。自信をつけて、同年の春に帰国しました。
そうした中、79年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、米国や日本などの西側諸国が対抗措置として、モスクワ五輪をボイコットする可能性が出てきました。そして80年5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)の総会で、日本の不出場が正式に決まりました。その日は母校で練習していて、一報を聞いて絶望しました。
学校側から強化に1000万円もかけてもらっていたので、本当に申し訳ない気持ちも強かったです。次のロサンゼルス五輪が開催されるのかもわからない状況で、自分一人ではどうにもならないこともあると思い知らされました。













