1980年5月24日、日本のモスクワ五輪のボイコットが正式決定しました。次の84年ロサンゼルス五輪が開催されるかわからない状況で福田(富昭)さんに連絡し、プロレスラーに転向するために(アントニオ)猪木さんに会いたいことを伝えました。
新日本プロレスの営業本部長だった新間(寿)さんからは「リングには金が埋まってる。そのデカい体を維持するのは学校の先生だと大変でしょう。五輪がダメならこっちに入りなさい」と誘いを受けた。
そして10月23日に東京・新宿の京王プラザホテルで行われた入団会見には、会社からの指示で五輪用の赤いブレザーを着て臨みました。会見には猪木さん、坂口征二さんが同席してくれました。アマレス界を代表して行っていると思ったので会見の席で「猪木選手」と言ったら、会場内は「え?」となってしまって…。入門したから「猪木さん」「猪木社長」と呼べば良かったんだけど、自分の中ではまだそういう感覚だったので。
新日本の契約金は1500万円で給料は1試合ごとに3万円。それだけ期待されていると感じました。契約金でアマレス時代の海外修行代1000万円を足利工大に返そうと思いましたが、当時の理事長が寛容な方で「谷津さん、それは餞別で取っとけ。プロレスラーは何があるかわからないから」と言ってくれて。理事長には今でも感謝しています。
新日本プロレスの選手寮は当時、山本小鉄さんが仕切っていて、寮生には前田明、高田伸彦らがいました。スクワットとかで基礎体力をつけることが大事だとされていて、みんな「俺は全日本(プロレス)なんかに絶対負けねえよ!」と意気込んで、練習に取り組んでいました。
そして会見から1週間後、10月30日の熊本市体育館大会でリングに上がり「すごいやつになります!」とファンの前であいさつしました。その夜に、宿舎となった老舗旅館「本陣」で歓迎会があり、焼酎をひたすら飲まされて…。でも周りの先輩レスラーは平然としていておかしいなと思ったら、後から自分以外は水を飲んでいたことを知り、プロレスラーはずるいなと思いました。
その2週間後には海外修行のために米国へ向かったので、猪木さんとはあまり接点がなかったですね。米国に行くことになったのはプロレスを覚えるのもあるけど、英語を覚えるためでもありました。リングに上がって外国人と戦う時、英語でコミュニケーションが取れないと「は?」ってなっちゃうので。
そこで、米国で活動していたキラー・カーンと会い、彼からプロレスラーとして多くのことを学ぶことになりました。













