【平成球界裏面史 近鉄編126】近鉄として最後のシーズンとなってしまう平成16年(2004年)、ドラフト自由獲得枠として1年目を迎えた香月良太は右肩の故障もあり、1試合のみの登板に終わった。そして合併球団オリックス・バファローズの一員として迎えた2年目、平成17年(05年)は仰木彬監督のもとで47試合に登板し防御率2・36と実力の片りんを示した。

 ただ、そのまま順風満帆な野球人生とはならなかった。平成17年(06年)は制球難に陥ってしまい、シーズン6試合の登板で防御率は2桁台という大乱調だった。ウエスタン・リーグでも防御率5点台と実力を発揮できないまま、シーズンを終えた。

 続く平成18年(07年)も制球難が改善されず、前年を下回る一軍登板3試合という惨状。一方でウエスタン・リーグでは二軍の守護神として20試合に登板し防御率1・40と格の違いを見せつけたものの、本人としては納得のいかないシーズンとなった。

敗色濃厚で激怒し、ネットによじ登るオリックスファン(2009年)
敗色濃厚で激怒し、ネットによじ登るオリックスファン(2009年)

 だが、平成19年(08年)には流れが変わる。4月11日にプロ初先発を経験すると、シーズン3試合目の先発登板となった7月25日の楽天戦で、1090日ぶり、先発としてはプロ初勝利を経験した。その後はセットアッパーとしてリリーフ陣の軸に定着。9月29日の西武戦では同点の8回に登板し延長10回に味方が勝ち越し4勝目を挙げると、この試合でチームが9年ぶりのAクラス入りを決めた。

 同年は得意球のシュートに加えてカットボールを駆使し投球の幅が広がった。対左打者が苦手だったが、このシーズンは被打率・242と改善。32試合に登板し防御率3・11と安定した成績を残した。「プロ生活を振り返って、いい思い出といえば08年になりますかね。オリックスで2位になって、クライマックスシリーズに出場する事ができた。その中で自分もいい場面で投げさせてもらいましたから」。入団した近鉄が消滅して5年後にようやく〝居場所〟を確保した。

 平成20年(09年)は右足内転筋痛と腰痛で二軍スタートとなったが、シーズン初登板となった4月10日のロッテ戦で勝利投手となるなど幸先のいいスタート。その後はセットアッパーとして機能し7月にはリーグトップの13試合に登板し、防御率1・35と好調をキープした。だが、登板過多に陥り8月以降は防御率6点台と急降下。チームも前年の2位からダントツの最下位に低迷し、香月自身も防御率4・18と成績を落とした。ただ、このシーズンはチーム防御率も4・58だったように投壊。リリーフ陣が軒並み不調に陥ったという事情もあり香月はチーム最多、キャリアハイの64試合に登板しシーズン通じてはリーグ3勝3敗20ホールドという数字を残した。

2009年のオリックスは投壊しスタジアムもガラガラに…
2009年のオリックスは投壊しスタジアムもガラガラに…

「プロに入る前は先発しかやってなかったですけど、プロでセットアッパーやリリーフ投手として投げてる間にもう、先発ってどうやって投げるんやろって感じで忘れましたね。いい場面で抑えて勝ちにつながるとうれしいですし、毎日投げられるということに喜びを感じてましたね」

 近鉄が存在すれば、どんな役割を担っていたかは分からない。ただ、オリックスで残した実績でドラ1の価値がある投手であることを、証明したと表現して間違いではないだろう。

雨天中止で物憂げな仰木監督(2005年)
雨天中止で物憂げな仰木監督(2005年)