【平成球界裏面史 近鉄編125】平成15年(2003年)、秋のドラフトで自由獲得枠での近鉄入団。香月良太にとっては、福岡・柳川高から東芝を経て即戦力の期待を背負ってのプロ入りだった。だが、右肩のコンディションが思わしくなく1年目のシーズンは球団消滅直前の1試合のみに終わった。
平成16年(04年)9月23日、オリックス・ブルーウェーブ戦(大阪ドーム)で7回から3番手で救援登板し2回4失点。これが香月にとってシーズン唯一の登板となり、プロ初登板となった。そしてその翌日、9月24日が近鉄バファローズとして最後となる本拠地・大阪ドームでのホームゲームとなった。
当時の近鉄首脳からすれば、ドラフト最上位で獲得した香月を近鉄のユニホームで一軍公式戦に登板させることに意義があった。とはいえ、その当時の近鉄の状況からすればドラ1のプロ初登板を十分に祝福するという雰囲気を演出できたとはいえない。その頃の近鉄はそれどころではない状況だった。
あくまで若手選手の1人であった香月は自動的に合併先であるオリックス・バファローズの一員となった。平成17年(05年)からはオリックスで仰木彬監督の下、プレーすることが決まった。開幕こそ二軍スタートだったが、5月に一軍昇格し5月14日の対広島戦でプロ初勝利。その後は中継ぎ陣の一角として右打者の内角を鋭くえぐるシュートを武器に打たせて取る投法を確立させた。
前半戦は防御率1点台をキープ。シーズントータルでは47試合に登板し防御率2・36とプロ2年目にして自分の居場所を作った。菊地原毅、加藤大輔、大久保勝信に加え香月を加えたリリーフ陣は、しっかりチーム内で存在感を発揮した。
本来、香月は少ない投球練習でマウンドに上がることのできるタイプ。それでも、右肩の関節唇損傷を出場ではなく保存療法で治癒させたため、投球すら満足にはできず我慢の時間を過ごした。合計2年ほどを故障の完治のために費やした甲斐はあった。
仰木彬監督がこのシーズン終了後に他界したため、香月にとって名将と共にプレーする野球は1シーズンに終わった。ただ、その姿は香月の脳裏に鮮明に残っている。
「のびのびやらせてもらってましたね。仰木さんはみんなの周りを歩き回って全体を眺めているようで、選手1人、1人のことをよくチェックしていましたね。僕にも気さくに声を掛けてくださいました。登板が重なってしんどいときもありましたけど、僕は基本的に毎日でも投げたいタイプでしたし、使ってもらえてよかったなと思っています」
自らをプロに導いてくれた近鉄ではなく本来、ライバルチームだったオリックスでプロとしての爪痕を残した。ただ、これは自身が選んだのではなく翻弄された運命の結果だ。プロ2年目で結果を残し、ここからは順風満帆の野球人生が訪れるのか。そうなれば最も良い未来だったが、次シーズンの香月は試練を背負うことになる。















