【赤ペン!】巨人・田中将大はあと1勝に迫った200勝を達成できるのか。次回の先発登板が注目される。

王貞治(左)、堀内恒夫(中)、長嶋茂雄さんの3ショットは壮観だ(73年)
王貞治(左)、堀内恒夫(中)、長嶋茂雄さんの3ショットは壮観だ(73年)

 そこで思い出されるのが、長嶋茂雄第1次監督時代の1979年。現役晩年を迎えたエース堀内恒夫氏に、先発から抑えへ転向プランが持ち上がった時のことである。堀内氏は1年目の66年から78年まで、実に13年連続で2桁勝利をマーク。だが、翌79年は成績を落とし、わずか4勝(7敗)に終わった。

 ここまで今季の田中将と同様、通算198勝で200勝まであと2勝。しかし、先発陣に江川卓、西本聖、定岡正二が台頭し、堀内氏の登板機会は急激に減少していた。

 その最中、首脳陣の間で抑えへの転向案が浮上した。短いイニングならまだ活躍できる可能性がある。あと2勝を、先発ではなく救援勝利で稼ぐこともできるからだ。

 ただ、堀内氏ほどの大功労者を配置転換するには、長嶋監督から本人に直接伝えてもらわなければならない。そこで投手コーチの高橋善正氏が、長嶋監督と堀内氏の間で日時を調整。後楽園球場内のしかるべき場所に堀内氏を待たせ、長嶋監督から抑え転向案を伝えてもらう段取りを整えた。

 ところが、長嶋監督は堀内氏に待ちぼうけを食わせた。しかも、2度約束をすっぽかし、理由を説明していない。いくら忘れ物の逸話が多い長嶋さんとはいえ、堀内氏との重要な約束を忘れていたはずはない。

 同じ79年に前年新人王・角盈男氏からサイドスローへの投球フォーム改造を直訴され、「やるからには途中で投げ出すな。責任は俺が持つ」と快諾。第2次監督時代の2000年、エース斎藤雅樹に引退したいと告白されると、「まだできるだろう」と励まし、その場で翻意させている。

 そんな長嶋さんが堀内氏に抑え転向を告げなかったのはなぜか。おそらく200勝目を先発で達成させたかったのだろう。

 投手200勝、打者2000安打を入会資格とする名球会は前年78年に設立されたばかりで、長嶋さんも発足に関わっている。そこへ堀内氏を迎え入れるなら、先発で勝ってほしいと望んだとしても不思議はない。

 ちなみに、両者の間で奔走した高橋氏は後日、「そういう厳しい通告はなかなか口にできないんだよね、ミスターは」と苦笑いしていたものだ。

 堀内氏は翌80年、先発3試合目で199勝。2試合の足踏みを挟み、6試合目で200勝に到達した。さて、田中将の200勝目はどうなるか。